トマス・アクィナス『真理論』

第四項

第四に、それによってすべてが真である真理はただ一つだけであるかが問われる。そのとおりであると思われる。

異論一

というのも、アンセルムスは『真理について』の中で、時間が時間的なものと関わるのと同じような仕方で、真理は真なる事物と関わると言う。ところで時間が時間的なものすべてに関わる仕方は、ただ一つの時間として関わるという仕方である。それゆえ、真理がすべての真なる事物に関わる仕方も、ただ一つの真理として関わるという仕方であろう。

異論二

しかしながら、これに反対して言われた。真理は二とおりに言われる。一つには、事物の存在性と同じものとして言われる。これはアウグスティヌスが『ソリロクィア』で定義して、「真とは在るところのものである」と言っている場合である。この場合に、事物の本質が複数であるに応じて真理も複数でなければならない。第二には、真理が知性においてそれ自身を表出する場合である。これはヒラリウスが真理を定義して、「真は在ることを明らかにするものである」と言っている場合である。この場合、いかなるものも、神の第一の真理の力によらなければ、何かを知性に明示することはできないから、すべての真理は、知性を動かすことにおいて、何らかの仕方で一つである。ちょうど、すべての色が視覚を動かすことにおいて、視覚を動かすかぎりで一つである、すなわち一つの光の概念(ラティオ)において一つであるように。――以上を反駁して次のように言われる。すべての時間的なものの時間は、数的に一つである。それゆえ、真理と真なる事物との関係が、時間と時間的なものとの関係と同じであるなら、真なる事物すべての真理は数的に一つでなければならないのであり、すべての真理は動かすことにおいて一つであるとか、それらの範型は一つであるとするだけでは不十分である。

異論三

さらに、アンセルムスは『真理論』の中で次のように論じている。もし複数の真なることに複数の真理があるとすれば、真理は真なることの変わるに応じて変わることになる。ところが、真理は真なることがらの変化に応じて変化するのではない。なぜなら、真なることがら、正しいことがらが破壊されても、それによりことがらが真でありまた正しくあるところの、真理や正しさは存続しているからである。それゆえ、ただ一つの真理だけが存在する。小前提は次のことから証明される。しるしが破壊されたとしても、表示の正しさは残っている。かのしるしが表示していたことを表示するなら、正しいからである。同じ理由で、どのような真なること、正しいことが破壊されようともそれらの正しさ、真理は残っている。

異論四

さらに、造られたものの中に、それに真理が帰属するようなものはない。例えば、人間の真理は人間ではないし、肉の真理は肉ではない。ところが、造られた有はどれをとっても真である。それゆえ、いかなる造られた有も真理ではない。したがって、およそ真理は造られたものではない。だからただ一つの真理しかない。

異論五

さらに、人間精神以上に大きいものは神以外にない。これはアウグスティヌスが言っていることである。ところが真理は、アウグスティヌスが『ソリロクィア』で証明しているように、人間精神より大きい。なぜなら、人間精神より小さいと言うことはできないからである。もし小さければ、人間精神が真理について判断することになったであろう。しかしこれは偽である。なぜなら、人間精神は真理について判断するのではなく、真理にしたがって判断するのだからである。ちょうど、裁判官も法律について判断するのではなく、法律にしたがって判断するように。これもアウグスティヌスが『真の宗教について』において言っていることでもある。同じくまた、真理は人間精神と同等であると言うこともできない。なぜなら魂は真理にしたがってすべてを判断するのであって、自分自身にしたがってすべてを判断するのではないからである。それゆえ真理は神以外にはなく、したがって、ただ一つの真理しかない。

異論六

さらに、アウグスティヌスは『八十三問題集』の中で、真理は身体の感覚によっては捉えられないことを次のように証明している。感覚によって捉えられるのは可変的なものだけである。ところが真理は不可変である。それゆえ感覚によっては捉えられない。これと同じやり方で、次のように論ずることができる。すべて造られたものは可変的である。ところが真理は可変的ではない。それゆえ真理は被造物ではない。したがって真理は造られない事物である。だから、ただ一つの真理しかない。
異論七

さらに、アウグスティヌスは同じ箇所で同じことを、次のように論じている。「感覚的なもので、識別不可能なほど偽に似たことをもっていないものはない。他のことには触れないことにして、身体を通して感覚することはすべて、それが感覚に現前していないときにも、それらの像であたかも現前しているかのような気持ちになる。たとえば夢や狂気の場合である。」ところで真理は偽に似たものをもたない。それゆえ真理は感覚によっては捉えられない。同じく次のように論ずることもできる。すべて造られたものは、何らかの欠落をもっているから、そのために偽に似た何かをもっている。それゆえ、造られたものはどれ一つとして真理ではない。したがって、ただ一つの真理しかない。
反対異論一

アウグスティヌスは『真の宗教について』の中で、「類似性が類似しているものの形相であるように、真理は真であるものの形相である」と言っている。ところで複数の類似しているものには、複数の類似性がある。それゆえ、複数の真なるものに、複数の真理がある。
反対異論二

さらに、造られた真理はいずれも造られない真理から、範型的に由来し、そこからそれ自身の真理をもっているのと同じように、知性的な光はいずれも造られない第一の光から、範型的に由来し、そこから明らかにする力をもっている。それにもかかわらずわれわれは、知性的な光は複数であると言う。これはディオニュシオスにより明らかである。それゆえ、これとまったく同じように、複数の真理があることは無条件に認めなければならない。
反対異論三

さらに、色は、光のおかげでよって視覚を動かすものを手に入れるのではあるが、条件なしに語るときには、複数の異なった色と言われるのであり、一つであると言われるのは限定された観点からだけである。それゆえ、すべての造られた真理は、第一の真理のおかげで知性に表出されるのではあるが、このことから真理が一つであるということは、限定された観点からしか言われえないであろう。
反対異論四

さらに、造られた真理が、造られない真理によらなければ自らを知性に現すことができないように、被造物におけるどのような力も造られないものの力によらなければ何らかの働きをなすことはできない。しかしわれわれは、何らかの仕方で力をもつものすべての力が、一つであるとは言わない。それゆえ、真なるものすべての真理が、どのような仕方であれ、一つであると言ってはならない。
反対異論五

さらに、神は事物に対し、三とおりの原因として関係する。すなわち、作出因、範型因、目的因である。そしてある固有性により、事物の存在性は作出因としての神に、真理は範型因としての神に、善性は目的因としての神に関係づけられる。このように、語り方に特有なこととはいえ、ひとつひとつがそれぞれひとつに関係づけられるのであるが、しかし、どのような語り方によろうとも、すべての善いものの善性は一つであるとか、すべての有の存在性は一つあると、われわれが言うことはない。それゆえ、すべての真なるものの真理は一つであると言ってはならない。
反対異論六

さらに、造られない真理は一つであり、造られた真理はすべてそれを範型としているが、しかし、同じ仕方で範型としているのではない。なぜなら、造られない真理はすべてのものに対して同じ関係にあるが、すべてのものが造られない真理に対して同じ関係にあるのではないからである。これは『原因論』で言われている通りである。だから、必然的なことの真理と非必然的なことの真理は、別の仕方で造られない真理を範型としている。ところが、神的な範型を模倣する仕方の異なっていることが、造られた事物における差異をもたらしている。それゆえ、条件なしに語るなら、端的に言うなら、複数の造られた真理がある。
反対異論七

さらに、「真理は事物と知性との対等化である。」しかしながら、種において異なっている事物の、知性に対する対等化は一つではありえない。それゆえ、主において異なる事物が真なのであるから、すべての真なるものの真理は一つではありえない。
反対異論八

さらに、アウグスティヌスは『三位一体論』第十二巻で、次のように言っている。「人間精神の本性は可知的な事物に接しており、それ自身に固有の光の中でその認識するすべてを見るのであると信じなければならない。」ところで、魂がそれによってすべてを認識する光とは真理である。それゆえ真理は魂と類を同じくするのであるから、造られたものでなければならない。だから被造物が異なるに応じて真理も異なっていることになる。
主文(段落一)

152-170 (Leonina)
次のように答える。すでに述べたことから明らかなように、真理は本来的には、神ないし人間の知性において見いだされる。健康が動物において本来的に見いだされるのと同じことである。これら以外の事物において、真理は、知性との関係によって見いだされる。健康が、動物の健康を作り出すものあるいは保持するものであるかぎりにおいて、他の事物についても言われるのと同じことである。それゆえ真理は、第一にかつ本来的に神の知性においてあり、人間知性においては本来的ではあるが第二にあり、事物においては非本来的かつ第二にある。というのも二つの真理の一方との関係なしにはないからである。それゆえ、神の知性の真理はただ一つであるが、ここから人間知性における複数の真理が由来する。「ちょうど一人の人の顔が鏡に複数の類似として映るように。これは注解が「真理は人の子らにより小さくされた」について言っている通りである。これに対し事物においてある真理は、事物の存在性と同様に、複数である。
主文(段落二)

171-179
ところで、人間知性との関係で事物について言われる真理は、事物にとって、ある種の付帯性である。というのも、人間知性が存在しないとすれば、事物がその本質にとどまっていたとしても、この真理は存在しなであろうから。しかし神の知性との関係で事物について言われる真理は、それぞれの事物に不可分にともなっている。というのも事物は、事物を存在へと造りだす神の知性によらなければ、自存することができないからである。
主文(段落三)

180-188
さらにまた、神の知性との関係で言われる真理は、人間知性との関係における真理より、事物により先に内在する。なぜなら、事物は、神の知性に対しては、それを原因として関係するが、人間知性の場合は、知性が事物から知を受け取るという点において、人間知性を結果として関係している。このように、ある事物は、人間知性の真理への秩序づけにおいてよりむしろ、神の知性の真理への秩序づけにおいて、より主導的に真であると言われる。真理は、神の知性との関係における真理であって、人間知性との関係における真理ではない。神の知性に対しては、それを原因として関係し、人間知性に対しては、知性は知識を事物から受け取るという意味で、それを結果として関係しているからである。この意味で、事物は人間知性の真理との関係でよりむしろ神の知性の真理との関係で真とより優先的に言われる。
主文(段落四)

188-200
それゆえ真理を本来的に言われていると受け取り、それもすべては主導的に真であるとするなら、この場合にはすべてのものは一つの真理によって、すなわち神の知性の真理によって真である。アンセルムスは『真理について』の中で、この意味での真理について語っている。しかし真理を本来的に言われているが、事物が真であると副次的に言われているとするなら、この場合には複数の真なるものに複数の真理がある。さらには一つの真なるものにも異なった魂ににおいて、複数の真理がある。しかし、真理を非本来的に言われていると受け取り、すべてが真と言われるとするなら、この場合には複数の真なるものに複数の真理があるが、ただし一つの真には一つの真理があるだけである。
主文(段落五)

200-209
ところで、事物は、神の性人におけるあるいは人間精神における真理から真であるとの名を与えられる。これは食物が動物においてある健康から「健康な」と名づけられるのであって、食物に内在する形相から名づけられるのではないのと同じことである。しかし、事物においてある真理は、知性と対等化された存在性、あるいはそれ自身と対等化する知性対象に他ならず、内在する形相から名づけられている。ちょうど食物が、それ自身の性質から名づけられており、その性質のゆえに健康と言われるように。
異論解答一

第一に対しては次のように言わなければならない。時間が時間的なものに対する関係は、物差しが測られるものに対する関係と同じである。だから、アンセルムスが、すべての真なるものの物差しである真理について語っていることは明らかである。そしてこの真理は数において一つしかない。二番目の論証で結論されているように、時間が一つであるのと同じことである。しかし、人間知性における真理、あるいは事物における真理は、事物に対し、外にあって測られるものすべてに共通の物差しのようなものとして事物と関係しているのではない。そうではなく、たとえば、人間知性における真理がそうであるように、測られるものが物差しに対するように、関係している。だから、だからこの真理は事物が変わるなら、変わらざるをえない。あるいは、たとえば事物における真理がそうであるように、内在する物差しとして関係している。このような尺度も、測られるものが複数であるに応じて複数化されなければならない。異なる物体に異なった測定があるように。
異論解答二

第二は同意する。
異論解答三

第三に対しては、次のように言わなければならない。事物が破壊されてもとどまっている真理は、神の知性の真理である。そして、この真理は無条件に、数的に一である。しかし、事物においてある真理、あるいは魂においてある真理は、事物が異なるに応じて異なる。
異論解答四

第四に対しては次のように言わなければならない。いかなる事物もそれ自身の真理ではないと言われるとき、本性において完成した存在をもっている事物のことが理解される。ちょうど、いかなる事物もそれ自身の存在ではないと言われるときと同じように。しかし、事物の存在は一種の造られたものであり、同じように事物の真理もある種の造られたものである。
異論解答五

第五に対しては、次のように言わなければならない。魂がそれによってすべてを判断する真理は、第一の真理である。神の知性の真理から天使の知性に、天使がそれによってすべてを認識する、事物の生得的形象が流出するように、第一の諸原理の真理は神の知性の真理からわれわれの知性へと範型的に流入し、これによって、われわれはすべてを判断する。そして、第一の真理の類似であることなくして、われわれは第一原理の真理によって判断することはできないから、第一の真理によってすべてについて判断すると言われるのである。
異論解答六

第六に対しては次のように言わなければならない。その不変の真理は第一の真理であり、これは感覚によってとらえられることも、つくられたもののひとつでもない。
異論解答七

【分析】
アウグスティヌスは異論六で用いられた論に対する反論を予想している。すなわち、太陽や星は感覚されうるものであるが、永遠であるという反論である。この反論に対し、感覚されうるものは偽と似ているという論が立てられる。すなわち、すべて感覚されうるものは偽と識別不可能であるから、真理ではありえないと主張される。これに対し、トマスは、事物が何らかの欠陥をもっているとしても、事物の真理は事物の欠陥を共有しないと答えている。したがって、事物と真理とは別の意味で、永遠であることになる。

反対異論一解答

反対異論のうち、第一に対しては、次のように言わなければならない。類似は本来的には、似ているものの両方に見いだされる。しかし真理は、知性と事物との適合の一種ではあるが、本来的には両方に見いだされるのではなく、知性において見いだされる。だから、すべてがそれと同型化することによって真であり、真と言われる知性、すなわち神の知性は一つであるから、すべてのものは一つの真理によって真であると言わなければならない。しかし、類似の場合は、複数の似たものに、それぞれの類似がある。

反対異論二解答

第二に対しては次のように言わなければならない。知性の光は神の光を範型としてそこに由来するけれども、光と本来的に言われるのは、つくられた、知性の光についてである。しかし、真理は神の知性を範型とする事物について、本来的に言われるのではない。したがって一つの真理と言う場合と同じようには、一つの光とは言わない。
[return]