ワールドスーク第十部   
 
 




 
 

Magini, Giovanni. 1597. Vniversi Orbis Descriptio






 

世界の不思議な遺跡たち
 
 
 

旅人は、小さなザックに荷物をつめて知らない国をめざす。なだらかなカーブが続く丘を見ていると、曲がりきったところに広がる世界を見たくなる。不思議なものに出会うとどうしてか、止まってそれをじっと見たり、触れてみたり、考え込んでみたりする。新しいもの、未知なる世界、そして水平線と、どこまでも続く地平線のかなたをめざした太古の人々。ワールドスーク第十部は、歴史の地平から姿を消した古代の冒険者たちの不思議な話を追う。
 

地底に消えた時間(クスコからキトーへ?)

ペルーのクスコは、南米観光の中心的存在だ。クスコ自体がかつてのインカ帝国の帝都であったことに加え、20世紀考古学の最大のスキャンダル「マチュピチュ」へのゲートウェイということもあって、治安の悪さにもかかわらず一年中内外の観光客がおしよせている。現在のクスコ市は、アルマス広場を中心にして、カテドラル、大学、博物館などのコロニアル建築が並び、インディオの世界というよりは、むしろスペインの小都市のような雰囲気だ。しかし、市内のいたるところにある建物の石組みはインカ時代のものをそのまま転用しているものが多く、各種メディアで有名になった、「かみそりの刃一枚通さない」石組みが町のいたるところで見られる。こうした精巧な石組みはクスコ近郊にあるマチュピチュでもみられ、インカ技術の先端性の証左として紹介されることが多い。実際見れば一目瞭然だが、インカ時代の石組みはスペイン人の作った石組みに比べてはるかに正確で、古い時代の技術の方が進んでいるという不思議な逆転現象をここではみることができる。マチュピチュをはじめインカ遺跡の多くは謎めいているが、それは一つにはインカ人が文字をもたなかったからだと言われる。マチュピチュに行くとガイドがいろいろと説明してくれるが、その説明の多くは単なる推測でしかない。しかも、私の印象では、その推測はほとんどあたっていないように思えた。マチュピチュの遺跡は一般的にはインカ帝国がスペン人の侵攻を受け、最後の皇帝アタワルパが処刑され、難を逃れた人々が皇帝の血を引く人々を中心に建造されたものと言われている。またこれとは別に第9代皇帝パチャクテイ・ユパンキが建造したとする説も有力説とされている。いずれにしても様々な遺物から実際にこの遺跡がインカ帝国のものであることは間違いないが、建造された経緯は明らかにはなっていない。さらに、この遺跡はインカ帝国によって使われていたものの、遺跡自体は、彼らよりもずっと古い時代に作られたものである可能性も指摘されている。
こうしたプレインカ大文明の可能性を考える上で興味深いものがもう一つクスコにはある。それは地下に張り巡らされたトンネル網だ。クスコの町から丘を登ってゆくとサクサイワマンと呼ばれるこれまたほとんど詳細不明な遺跡がある。この遺跡に巨大な自然石があり、その裏手には地下トンネルに通じる入り口が発見された。しかし、幾度となくそこに入り行方不明になった者が出たため、今は外部の者が入れないように閉鎖されている。また、クスコ市内のカテドラルの祭壇下にもトンネルがあることがわかっており、いままでにも学術調査や、マスコミの取材が行われているが、内部はまるで迷宮のようにトンネルがはりめぐらされていて、トンネルがどこからどこへ伸びているのか、全貌はほとんど何もわかってない。しかし、このトンネルのことは、地元ではかなり古くから知られていたようで、人々の間では様々な噂があるようだ。それによるとトンネルは、クスコ市内の主だった建物(その多くはインカ時代の建物の礎石を転用したものだ)の地下にはトンネルが通じていて、少なくともそれがサクサイワマンまで伸びているとのことだ。しかし、話はこれでは終わらない。いくつかの口伝は、このトンネルが、はるかエクアドルのキト市の地下までのびているとしている。事実エクアドルでは無数の地下遺跡の存在が知られている。1965年にエクアドルのモロナーサンチャゴ県ロス・タヨスで人工物と思われるトンネル網が発見され、その発見者であるハンガリー生まれのアルゼンチン人ファン・モーリスが詳細調査をしている。彼の調査によると、トンネル内部には高さ100メートルもある巨大な広場があり、そこにはインカのものとはまったく別種の彫像や、解読不能な文字の入った金属板があり、トンネルはさらにその奥かなたに続いているようだと報告している。また同じくエクアドルのクエンカには、地元民が「地下遺跡」から持ち出したとする純金製の文字盤がある。これは現在マリア・アウグシリアドラ教会所蔵となっているが隣接する個人博物館「クレスピ神父博物館」で見ることができる。この博物館自体はかなり「怪しい」たぐいの物品を展示していることで有名で、博物館の所有者である当の神父自身も農民の貧困救済のためにあえてこうしたマガイモノを買い取っているという一面もあるらしい。ただし展示品のうち約50点あまりは神父自身をはじめ多くの者が本物ではないかと考えているもので、その中の一つがこの文字盤だ。純金という素材の高価さと、それを加工するという技術を考えると、こればかりは農民の内職やマニアのいたずらとは考えにくい。この文字はそのうちのいくつかが古代の北方セム語に類似していることが指摘されている。 しかしながら、博物館の性質上今のところこれをまともに研究した例はないようだ。
 
 


 
 

クエンカの純金製文字盤







実は南米大陸ではこの他にもこの手のトンネルが無数に発見されている。チリのサンチャゴやブラジルのアマゾンにも正体不明の地下遺跡は存在している。ちなみにこれらの遺跡は、ナチスドイツのアーネンエルベ局によって探査、発見されたというのも興味深い。実はファンモーリス自身も元はアーネンエルベ出身だ。後述するが、オカルト趣味のあるヒトラーがチベットのある神話から地底都市の存在を強く信じるようになったのがこうした調査活動のきっかけになっている。
スペインの征服者たちもこうしたトンネルの一部をすでに発見していて、ピサロ提督は、アンデス山脈ワスカラン山中に地下道を発見、調査するが、この地下トンネルのあまりの規模に彼らの手にはおえなかった。このトンネルはそれから数百年後の1971年にようやく現代人の手によって調査された。その結果判明したことは、トンネルがアンデス山中から、ほぼ14度の勾配で海に向かっていて、そのトンネルは100キロ以上も続いた末に、海の潮流に没していた。その先は今は海中に没していることになるので、調査は不可能だが、いずれにしても、さらに海底のどこかまで伸びていることは間違いない。
また、これはまったく根拠のないうわさにすぎないが、ブラジルの地下トンネルははるかカイロのギザまで伸びているという説まである。不可解なものを見ると時として想像力を暴走させるのが人間だ。さすがにカイロというのは悪乗りが過ぎると思われるが、しかし、いずれにしても実体不明な何かがこの広大な大陸に隠されていることは間違いない。雪をいただいたアンデスの山並みは、わずかに何かを語りかけているように見えてくる。私たちが生きている間にその全貌が明らかになるとは到底思えないが、こうした遺構の存在に、未知なる古代人たちの漠然とした影を見ることができる。



 

アナトリアの秘密
 

前回は南米の不思議なトンネルについて紹介した。しかし、実は南米を訪れるかなり以前から私は地下遺跡というものに漠然とした興味をもっていた。そのきっかけは1994年にトルコ、カッパドキアの奇妙な地下都市遺跡に出会ったときまでさかのぼる。
まずは、そのカッパドキアの遺跡について概要を紹介してみたい。 トルコの首都アンカラから荒涼とした道をバスで南東に300キロほど行くと、やがて視界に広がる異様な風景に旅人は驚かされる。カッパドキアと呼ばれるこの一帯は、アナトリアの火山帯に属しているが、見た感じでは火山というよりは地層が所々で断絶し、その断面が自然の侵食作用をうけて奇岩を作り出しているという感じだ。この地帯を世界的に有名にしているのは、こうした浸食作用でできたキノコのような奇岩群で、興味深いことにこれらの転々とあるキノコ岩は内部がくりぬかれて、それが住居や倉庫などに利用されている。その様はファンタジーそのもので、それゆえに今はこの不思議な町並みが大きな観光資源になっている。ちなみに私の泊まったホテルもキノコハウスだった。一般的には四世紀頃にキリスト教徒たちがローマ帝国の宗教弾圧から身を守るために、この辺鄙な地帯にキノコ岩に洞穴のような住居を作って細々と信仰を守りながら暮らしていたと言われている。(彼らの生活史はそれ自体非常に興味深いもので、その話もいずれ紹介するつもりだ。)その後、19世紀までこの街はキリスト教の隠れ家的な意味を持ちつづけていたらしい。ギョレメ近くの洞窟教会には今も見事な壁画があり、人間の信仰の歴史に一種の不気味さすら感じる。
 
 

カッパドキア(ギョレメ地区)の町並み。泊まったホテルのテラスより。








しかし、キリスト教以前、すなわち四世紀前のカッパドキアは誰もいない空白地帯だったのかというと、そうではない。話はここから始まるのだ。
カッパドキアのあるアナトリア地方からブルガリア一帯にかけては紀元前数千年の時代から、ギリシア、ローマ世界とメソポタミア、コーカサス中央アジア地域との通路をなしていた。歴史上ローマやメソポタミアが強いインパクトを持って語られるが、実はその二大勢力に挟まれたこの一帯をめぐる不思議な文物は非常に多く、チャタルホヤックの古代住居史跡(BC6000頃)は、イエリコのものと並んで人類最古だろうと言われている。また、ギリシア神話の起源もその多くはアナトリア周辺から発していることが多い。余談になるがギリシア神話で中心的存在のアポロン神も実は外来の神でアナトリアがその起源であるとする説はかなり有力である。その頃、女人族アマゾンや「王様の耳はロバの耳」で有名なフリージア王国もアナトリアを中心に栄えた。もちろん世界最初の鉄器王国ヒッタイトが紀元前1800年頃に勃興したのもこの周辺である。少し時代が進んだ頃、アルメニア正教などはやはりアナトリアで栄えたが、形はキリスト教の体裁を整えているものの、実体は何か得たいの知れない神々との習合を思わせる節がある。カッパドキア近くにはかつてセルジュークトルコの首都だったコンヤがあるが、ここで信仰されているメブラーナ教団というイスラムスーフィズムは、やはりイスラムの要素よりもブルガリア近辺の異端キリスト教、カタリ派、ボゴミール派との類似点の方が多い。話が大いにそれてきたが、つまり、この一帯は我々にはまだよく知られていないというだけで、実際は非常に多様で個性的な文明の発祥地だったことがわかる。

こんな状況から考えるに、この一帯からは、今後何かとんでもないものが出てきても不思議はないのだが、その端緒となるかもしれない発見が1960年代のカッパドキアにあった。ひょんなことから想像を絶する規模の地底都市が見つかったのだ。それも一箇所だけではなく、次々と大小あわせて十箇所前後の地下都市が発見された。最大級のものは、カイマクル、デリンクユ、オズコナークで、その後の調査でそれぞれ、1.5万人、6千人、6万人を収容していたことが判明したため、全体で10万人近い人間の住む地下都市群であることがわかった。しかも、これらの地下都市はそれぞれが数キロにわたるトンネルで結ばれていることも判明した。カイマクルとデリンクユ間のトンネルは9キロという長いトンネルだった。さらにセンセーショナルだったのは、カイマクルの地下都市は、少なくとも地下150メートルの深度を持ち、高さにすると8-12階建ての建物に相当するということだった。いくつかの未確認情報(三次資料以下)では、深度は300から700メートルに達する可能性もあるという。また、内部の生活環境維持システムも万全で、ふんだんに出る地下水をはじめ、換気のためと思われる円錐形の空洞なども見つかっている。外部との出入りには、滑車式の「エレベーター」が使われていたことも分かった。
当然ここで、「いったい誰がいつ何のためにこの大事業を行ったのか」ということが問題になるわけだが、現地のガイドやガイドブックなどが無難な線として説明しているのは「四世紀のキリスト教徒たちが迫害を逃れるために地中深く潜伏した」というものだ。これは十分にありえるように見える。しかしこれだけの大規模な建造物をいわばマイノリティーとも言える迫害キリスト教徒たちだけで作れるとも思えない。また度重なる調査によっても、内部に生活用品や宗教画などの物品はほとんど確認されなかった。これは地上に存在する洞窟教会が見事な宗教画に彩られているのとは好対照であり、キリスト教徒たちの潜伏説を採るには不自然な点が多い。この遺跡の奇妙な点は、「とてつもなく巨大な地底空間構造を掘ってあるだけ」ということで、そこで何かが行われた形跡がほとんどない。年代測定もこの地底都市がキリスト教が現れるはるか昔からそこに存在していた可能性を支持している。こうした事情から、考古学者はこの遺構は古代民族ヒッタイトの手によって作られたものだろうと推測しているようだが、これは、謎の遺跡を謎の民族に押し付けただけのことで、要するに何もわからないと公言しているだけのことだ。

不思議が不思議を呼ぶこの遺跡の話も大抵はここで終わる。実際、調査は始まったばかりであり、トンネルという事情も災いして、そう簡単には全貌が解明できる見込みもない。それゆえに、想像力の暴走がここでも起こる。カッパドキアの遺跡を紹介する記事には、これが古代の核シェルターであるとする話も多い。事実カッパドキアという地名は、ギリシア神話のゼウスの雷が「落ちたところ」という意味があるという。私も考古学や科学を考えるときは、可能性がある限りその説は排除しないという姿勢でのぞむことにしているが、核シェルター説は、各種専門的な考証を参照するまでもなく、現状で得られる事実からだけでも、それらの事実が相互に矛盾しているように見える。端的な例で示せば、核技術を持っている文明が作った遺構にしては、逆にこのトンネルはその規模以外の点に関しては幼稚すぎはしないか。核技術を持っている現代の我々が、地中に穴を掘っただけのシェルターを作るだろうか。核分裂の概念があるならば、電磁気学、原子物理学も発達しているはずだが、遺跡からコンピューターはおろか電子レンジさえ出てきていない。
この遺跡が核シェルターなどではないことは間違いないが、しかし、依然として、誰がなぜ、こんな巨大なものを作ったのかという疑問は残る。
この疑問に対して、最近とても興味深い仮説がでているので最後にそれを紹介しよう。それは紀元前9世紀頃に南ロシア平原に興った遊牧騎馬民族、キンメリア人とこの巨大地下都市との関連を指摘するというものだ。キンメリア人は、もともと南ロシアにいたが、中国北方の匈奴族が、周王朝の討伐にあい西走、やがてアルタイ山脈にいたスキタイ人を圧迫し、それがさらなる連鎖反応を起こして南ロシアのキンメリア人も西へ押し出される結果となった。さらに時代を経て、スキタイ人が執拗にキンメリア人を追いまわした結果、キンメリア人はアナトリアに逃れるのだ。
問題はこのキンメリア、スキタイという二大勢力が、どうやら南ロシアの金鉱山と関係があるらしいという点だ。スキタイがアルタイ山系発祥であることは書いた。アルタイというのは、もともアルタイ語における「金の山」を意味した言葉で、スキタイが黄金の文化と呼ばれるのと大いに関係がある。つまり、スキタイもキンメリアもともに金鉱山師の文明であり、スキタイが、執拗にキンメリアを追いつづけたのも、キンメリアが大量の金を持って逃げ回っていたためかもしれない。
鉱山師ならば、地中に穴を掘るのはお家芸だ。彼らのその技術がカッパドキアの地下都市建築に生かされたと考えるのはそれほど奇抜な推理ではない。さらに、地中海沿岸域には、シシリー、イタリア、チュニジア、エジプトなどに点在するカタコンベがあるが、これらのカタコンベ文明とカッパドキアの地底都市を関連付ける説も根強い。カタコンベは一般には紀元後キリスト教の共同墓地とされるが、カッパドキアの地下都市と同じく、建造時期は、キリスト教の出現よりもはるかに古い時代にさかのぼると言われている。ここでも転用が起こってるのだ。もしこれらの関連付けが事実だとすると、小アジアから、ヨーロッパ、北アフリカにまたがる広大な地域に、未知の勢力がはるか古代に存在した可能性が出てくる。それがはたしてキンメリアかどうかはわからない。しかし、南ロシア、黒海北岸に見られる初期地底建造物が、こうしたカッパドキア、ヨーロッパ、アフリカ、さらには南米へと続く全世界的な地底都市文化と何らかの繋がりがあるという可能性はある。人の目につかない、何かの奥底に真実が眠っている。地底遺跡は少しずつ我々の歴史の真の姿を見せてくれるのだろう。
 
 



 
 

定説の脆さと想像の危うさ(ICAの模様石)
 

ペルーの首都リマ市には古代インカ帝国の国だけあって、様々な興味深い博物館がある。中でも異彩を放っているのが、日系人天野芳太郎博士が開いた個人博物館、通称「天野博物館」と呼ばれている博物館だ。リマ市に来るバックパッカーの多くは大統領府の裏手にあるペンション沖縄という安宿に投宿しているが、例によって彼らはほんどと観光などに興味はなく、朝まで酒を飲み明かしたり、昼過ぎに起きては近所の市場やら食堂やらでダラダラと飯を食うという日々を送っている。そんなテイタラクな人々だが、唯一観光する場所がこの天野博物館だ。なぜかというと理由は簡単で、入場料が無料なのである。しかもこの博物館は日本人ガイドの説明までつくという親切なもので、せっかく、こんなところまで来たのだから、一つくらい何かお勉強していくか・・・というような調子でみんなゾロゾロとでかけていく。博物館自体は、ごく小規模なもので、一般公開されている二部屋はそれぞれ小学校の教室程度の大きさしかないが、テーマ性がしっかりしているので、説明を聞きながら回ると非常に内容の濃いものになるというわけだ。そもそも設立者の天野氏はプレインカ期のチャンカイ時代の造形物に魅せられたのがこの世界に入るきっかけとなっているようで、博物館もチャンカイ(AD.1000-1400)の陶器と織物、染物が主な展示品となっているようだ。染物の研究生というガイド嬢の丁寧な説明はまず、プレインカ期における南米大陸の文明変遷の歴史から入る。まず、驚くことは、南米文明といえば大抵はインカ文明くらいしか知られていないが、実際は、紀元前よりすでに文明と呼べるくらいのまとまった社会が大陸各所に点在していて、様々な出土品も出ているということであった。その歴史的経緯と出土品を見比べてみると、明らかな連続性が見られるものがある一方で、まるで他の文物とは断絶しているようなデザインや色使いなどの品々もあった。旅人たちは、ここでまず南米の歴史の時間的な奥の深さに驚愕する。さて、ガイド嬢はその後、たて続けに恐るべきことを平然と言い出す。南米大陸インカ帝国の主神は太陽神であるというのは教科書にも出ている事実だが、実際にこの太陽信仰というのは、紀元五世紀くらいに突然大陸に現れたということだった。それまでどのような信仰があったのかは判然としないが、少なくとも五世紀という時期を皮切りに南米に太陽信仰が現れたことは間違いないようだ。さらに、驚くことに、彼女の説明によると、スペイン人が南米大陸を「発見」するはるか昔から、南米には黒人、アラブ人、はては中国人までいたらしいとのことなのだ。その根拠となっているのが天野博物館にあるモチーカ文化(紀元後100年−600年)の作と言われる陶器像群で、確かに明らかに黒人やら中国人にしか見えないものがあった。定説では1492にコロンブスがこの大陸に上陸するまでは南米に外来民族は一切存在していないことになっている。現住民族のインディヘナと呼ばれている人々は、今から一万二千年前にベーリング海峡を歩いて北米大陸まだわたってきたモンゴロイドの末裔たちと言われている。それ以降、人種的にも民族的にも南北アメリカ大陸は彼ら以外には存在しないはずなのだ。したがってもし本当に五世紀にこの地に渡ってきたネグロイドやコーカソイドがいるとすれば、それはある意味とんでもないことなのだ。
 
 

      

コーカソイド(白人)と思われる陶器と、アラブ人のような陶器








さすがにこれは聞き捨てならんという訳で、「その話はある程度学界でも認知された話なのでしょうか」と質問してみたところ。ガイド嬢は「詳しくはわかりませんが、まぁ、論より証拠。この人物は明らかに白人に見えるではないですか」とのことだった。まぁ、彼女は染物の専門家で歴史はそんなに詳しくはなさそうだったので、それ以上は質問することはしなかったが、いずれにしても「すごいことを聞いたぞ」という気がした。というよりも私はこの話を聞いて「やっぱりそうだったのか」というある種確信めいたものを感じた。 仮にもしも彼女の話が本当だとすれば、当然次のような疑問が出てくる。五世紀の黒人や中国人がどうやって南米にやってきたのだろう・・・。少なくとも黒人は歴史上中東より東に進んだことはないので、もしも南米にたどりつくとしたらアフリカ大陸から西経由、つまり大西洋をわたったとしか考えられないわけだ。千年も時をへだてたコロンブスがたいへんな苦労をしてわたった大海原を古代人が果たしてわたることができるのだろうか。疑問はまるで木の枝のようにどんどん広がる。

さて、こんな不思議な話を聞いた後適当な店で「オキナワ」仲間と酒をくらった。その後私は市内のカジノで結構もうけた。別にもうかったからというわけではないが、そろそろ次の街に出発しようかという気になり、翌日のバスにのって南に向かった。目的地はナスカに程近いオアシス都市イカ(ICA)だ。なせICAに行くことになったかというと、前々から非常に気になっている怪しさ満点の古代遺物と思しきものがその街にあると言われているからだった。それはICAの石とか模様石とか言われているもので、その物語はざっと次の通りである。

1966年にICA市近辺を歴史的な豪雨が襲った。そのせいで、ICA川が氾濫し、砂漠を洗い流した。その直後から、近辺では妙な模様の刻まれた石が次々と発見されることになる。しかし、こうして続々と発見されていた石を見た人々は困惑した。そこに描かれている絵が、これまで調べられてきたどのような南米文化のものとも類似性がないばかりか、絵の題材がどう見ても古代生物、恐竜にしか見えないものが含まれていたのだった。当然こうした遺物に対しては強く懐疑の目で接するのが科学的態度というものであり、大抵の考古学者はこの石を単なる作り物と退けた。こんな話は世界中どこにでもある。しかし、その後この騒動は思わぬ展開を見せたのだ。
ICA市の医師、カブレラ博士は、診療のお礼にと農民からこの奇妙な石をゆずり受けて以来、この石に魅了され、専門家たちが無視する中、これらをせっせと集めて歩いた。博士自身も自ら現場に出向いて発掘するということもあったようだ。その結果いつのまにか石は一万点に及び、診療室を小さなな私設博物館として、一般に公開するようになった。1967年に博士はマウリシオ・ホッホシルト鉱業会社に石の年代鑑定を依頼。地質学者エリック・ウルフ博士がこの鑑定を行うが、出た結果は非常にセンセーショナルなものだった。その鑑定結果は「線刻表面を覆っている酸化層を分析した結果、絵が刻まれたのは少なくとも1万2000年以上前のものと思われる」という結論を出していたのだ。さすがにこの結果に自ら疑問をもったウルフ博士は、確認のためにこれらの石をボン大学鉱物学・岩石学研究所のヨーゼフ・フレッヒェン教授に送り再鑑定を依頼するが、出された結果はウルフ博士の結論と同じであった。
これとは独立して考古学者アルトゥーロ・カルボが発掘したICA石の鑑定をペルー工科大学に依頼しているが、「石表面と線刻部分を覆っている酸化層を分析した結果、絵が刻まれたのは一万二千年以上前であることが判明した」という俄かには信じがたい結果を出していたのだ。
この結果をうけて世界のオカルトファンは色めき立つ。しかし、話はそう一方的には進まない。この騒動に注目したイギリスBBC放送が、独自調査を行うドキュメンタリーの中で、これらの石を自ら作ったというパジリオという男まで発見してしまうのだ。事実ペルーにはこうした考古学遺品の贋作を作り観光客や学者に高く売りつけるというのが立派な商売になっていて、パジリオもその一人ということなのだ。
そんな経緯を経て、ICA石はまず間違いなく作り物だろうということになって現在にいたっている。

カブレラ博士の博物館は旅行ガイドブック、ロンリープラネットには紹介されているが「カブレラ博士はこれらの石が太古のものであると主張するが、専門家はそれを信じていない」とコメントしてある。博物館は予約制になっていて、電話をして事前に鍵をあけてもらわないと入れない。しかも電話はスペイン語しか通じないということもあって、大変苦労して、見学にこぎつけた。
内部は本当に狭い二つの部屋だけで、棚がいくつもおいてあって、その棚、床、テーブルを問わず、石がところ狭しと置いてある。何かの植物を描いたもの、人間が狩りをしている絵などごく普通のものもあるが、噂とおり、実に怪しい絵が次々と現れる。 まずは、恐竜。それから翼竜のようなものにのった人間二人。三葉虫の絵。さらに人体を外科手術しているような絵。人間が望遠鏡のようなものを使って彗星を観測しているとおぼしき絵。あたかも大陸移動を示しているような図・・・・
 
 

  
 

望遠鏡で彗星観測(左)と、大陸移動の図(右)
 
 
 
 

       
 
 

恐竜を狩る古代人(左)と、へんてこな生き物(右)








正直のところ、この博物館は部屋からしてアヤシサ満点だが、この石も激しくアヤシイ。私の印象では特に恐竜の図柄はまるで子供が描いたゴジラの絵であって、どこか幼稚さを感じた。私の直観はこれが間違いなくニセモノだと言っていた。それにBBCも主張していたようだが、線刻が数万年前のものにしては鮮やかすぎるというのも気になる。外科手術の絵にいたっては、製作者の悪乗りに少し嫌悪感すら感じた。

かくして一時間ばかりじっくりこの世界一怪しい博物館を見て回ったわけだが、私の結論は「ここの石のほとんどはまず間違いなくニセモノ」というものだ。
特に恐竜やら外科手術やらの模様など、我々の目から奇異に思えるものが非常に多いのが何か矛盾している。つまり、もしこれが本物だとしたら、何も恐竜やら外科手術やら、三葉虫やらばかり描く必要がないはずなのだ。こうした古代人が存在したなら、現代にも存在する動物や植物、生活習慣も同程度にまざっていなくてはおかしい。「恐竜や外科手術が描かれていること」が特異なのは我々にとってであって、そこばかりを抽出して描いているところに、現代人の意図が容易に見える。第二に、プレートテクトニクスを知り、外科手術が可能なのに文字が存在していないというのも不可解である。私はある程度の水準の科学技術には、情報の伝達と蓄積のための記録が不可欠と考えている。もちろん正式な学術機関が出した年代測定を無視することはできない。しかし、年代測定というのは実はそれほど確定的なものではなく条件次第によって大きく誤差が出ることはよく知られている。特になんらかの燃焼がなされると、正確な年代測定は無理なのだ。

このように自分の目で確かめた結果ははっきりとした。しかし、実は私はこれらの石に関して完全にすべてがいんちきであるとは考えていない。というのも、実はこうした石の何点かは、農民が持ってきたものに限られないのだ。しかるべき考古学発掘の現場でプレインカ時代の墳墓から埋葬品と一緒に出てきたケースもあり、やはりおそらく何点かは本物(もちろん恐竜のは除く)があるように思われる。実際に出土した本物の石を見た農民が、それをよりセンセーショナルに真似することによって金儲けをしたとも推測できる。しかし、冷静に考えると、何も恐竜やら三葉虫が描かれていなくても、もしこれまでのどの文化とも共通性のない線刻石が存在するとすればそれ自体かなり大変な発見なはずだ。残念ながら、これほどにニセモノが混じってしまい、研究者もこれを扱う気を失っている現状ではもはや真相が明らかになることはないのかもしれない。

科学の定説は本当はとても脆い。誰もが信じて疑わない物理学ですら、この数百年で何度も転覆している現状を考えると、考古学や歴史学のように実験不可能な領域の「定説」の地盤の弱さは言わずもがなである。天野博物館にある物的証拠はプレコロンビア期の南米の歴史に見直しをせまるだけの十分な力を持っている。そして私はその「定説」がおそらくいつの日か崩れるだろうと信じている。一方で私たちの想像力は時として無節操に広がりすぎることがある。ICAの石はその好例で、悪意と想像力が暴走した結果、もしかしたら存在するかもしれない貴重な真実が失われてしまった。古代の核戦争とか、恐竜との共存など、幼稚でわかり易いマンガ的な想像もいいが、歴史の真実はそんな絵空事よりも深刻で驚異的であるはずなのだ。



 

情報伝播速度
 
 

ワールドスーク第十部では、私たちの古代世界に対する見方を変えるかもしれない何点かの遺跡を紹介した。実はこれらの話で私が誘い出そうとしている一つのストーリーがある。それは時間のかなたに消え去った無数の冒険者たちの影だ。

超古代史とよばれるいささか怪しい分野があるが、そこでは真剣に世界中に点在する「洪水伝説」をとりあげ、この出来事が事実の描写であるとの仮説の上で議論を進めている。洪水伝説で最も有名なのは旧約聖書のノアの箱舟伝説だが、この伝説とほとんど同じものが紀元前4000年のシュメールのギルガメシュ叙事詩にも記載されていて、ケルト神話、中国の神話、さらには北米インディアンや、南米のインディオの神話などにも同様のエピソードはたびたび登場する。ただ、洪水という自然現象は、地球上どこでも普遍的に存在し、同時に人間の居住区の多くは水供給の容易な川岸に設置されてきたわけで、それゆえに、「洪水による破滅」はある意味、古代世界の日常茶飯事だったと考えるべきだろう。しかし、洪水伝説に関しては箱舟という特定の手段や、山に漂着するという話など、細部にいたるまでが共通していることが多く、これを単なる「自然災害の普遍性」で片付けることには少し無理がありそうなのだ。そこで超古代史家は、全世界に存在する洪水伝説を根拠にこれが地球全体を襲った超災害の史実を裏付けていると考えるわけだ。
しかし、話をそこに飛躍させる前にもう一つ考えるべきことがある。これらの伝説がそれぞれ独立に成立したのではなく、どこかでつながっている可能性を考えるべきではないだろうか。特にシュメールの叙事詩と旧約聖書の場合、それぞれメソポタミアとカナーンで成立したものであり、地理的な面からもこれらが、実際には同一の局所的事件をベースにしているという可能性は十分にある。 (カナーンと書いたが、旧約聖書は正確には、ペルシア帝国の属国となったイスラエルで、ユダヤ系ペルシャ宮廷官僚がペルシア政府の命によって500年間の歳月をかけて作成したものであり、ここでメソポタミアの伝説とユダヤ系、ひいては後のキリスト教の神話が入り混じった可能性は非常に高い)
こうした古代世界の不思議な類似性は何も神話に限られたことではない。世界に存在する宗教はほとんどが同起源である可能性すらある。少なくとも太古のアーリア系宗教は仏教のベースになっているし、それは西洋ではキリスト教という仮面をかぶって、今に至っている。世界に点在する地母神の姿もほとんど同起源であると言われている。イシュタル、アルテミス、イナンナ、アテネ、ビーナス、アナ、さらに観音菩薩や弁財天など、枚挙にいとまない。
人間が紀元とする時代がはじまった頃には、こうした神話や伝説はかなり普遍的に世界に浸透していたのだ。
古代世界での情報の伝播速度は、千年に千キロ程度とも言われているが、こうした神話世界での連続性はそれをあざわらうかのように見える。はるか極東にたどりついた、弥勒半伽思惟像はメソポタミアの太陽神なのだ。
 
 



 

広隆寺の弥勒半伽思惟像。古代アーリアン(ペルシア)の太陽神がバクトリアを経由して日本にたどりついた。
遠いところをようこそいらっしゃいました・・・









少し話しを変えよう。
日本語はいわゆるウラルアルタイ語系に属していて、これは朝鮮語や満州語、さらにトルコ語などと共通している。トルコ民族がもともと中国北部にいた突厥に由来していることを考えると、こうしたシンタックスの共有は地理的な観点からも無理はない。ウラルアルタイ系の言語は、太古の昔、今の満州近辺から発生し、その後東にのびた一派が日本語となりで西へのびたものがトルコ語となる。今日シルクロードと呼ばれている内陸ルートにそってその歴史を描くことができる。
一方で言葉の音声はどうかというと、これはかならずしも統語論と同じルートをたどっていない。
比較言語学の大野晋はかつて日本語とインドタミル語との類似性を検討した上で、日本語の発祥地がインドではないかという仮説をたて物議をかもした。大野説と鋭く対立しながら村山七郎はやはり日本語の起源を南島諸語と見立てている。両説とも言葉の音は南回りで日本に入ってきている可能性を示唆するもので音声の伝播があったという点は共通している。
大野説と村山説は学界で真剣にとりあげられている仮説であるが、日本語の起源をさらに遠方にもとめる異端的仮説が川崎真治説で、彼は日本語のみならず、世界中の言語の起源を古代シュメール語に求める。彼の議論のもっとも核心的なものは、世界の言語のほとんどが否定詞として古代シュメールの「ふくろう」と「牡牛」、「神」の三語から派生しているというもので、一例を挙げると、日本語の否定後置詞「ヌ」や「ネ」は西洋語のno nicht nonなどと同根でそれはシュメール語のフクロウnumu (ヌ鳥)から来ていると論じているのだ。また中国語の「不」という漢字は鳥が立ち上る様子と言われるが、「フ」という音からもそれの元の像がフクロウを示している可能性が高いという。フクロウはシュメールで puuhu(プー鳥)とも呼ばれていたのだ。もっともこれだけの話ではいかにもただの酒飲み話であるが、かつてのメソポタミアから日本にいたる地理上にこうした音声的な変化が連続的に再現できれば、こうした仮説も俄かに真実味を帯びてくる。川崎説はその変化をかなり正確に追っている。
さらにシュメール人そのものが日本にやってきたという仮説をたて、シュメール文書から忠実に再現したイカダに自ら乗って約三ヶ月でメソポタミアから日本までたどり着いた冒険家もいる。

これらの学説や仮説がすべて正しいことはまずないだろう。ただ私が世界の遺跡を歩いて思い描いていることは、個々の文明という断絶した歴史地図ではなく、それぞれが有機的につながっていた古代の世界地図なのだ。そうしたつながりが意識的なものか無意識的なものかはわからない。しかし、私たちはこれまで古代人の情報伝播速度をあまりにも過小評価しすぎてきたのではないだろうか。紀元後の世界が始まってまだ高々2000年程度しか経過していない。ジャルモ、イェリコといった都市国家郡が成立したのが紀元前7000年と言われているから、紀元を境に反対側には7000年近い歳月が流れているのだ。その間私たちの祖先はじっと同じ場所で黙々と時間を消化していただけなのだろうか。

冒険者たちはきっといた。彼らは地平線をめざし、水平線をめざし、未知の文化に出会っていたはずだ。私たちの体を静かに流れる古代人たちの血はそのことを教えてくれる。
彼らは私たちが考えているよりもずっと自由だった。そして彼らは私たちよりもずっと自由だった。


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