ワールドスーク
第一部
「思いやり深き娼婦、それが私である」
大女神イシュタル BC1800バビロニア
「私たちは姉妹たちに思いやり深いばかりでなく、全人類に対して思いやり深いのです」
マグダラの娼婦マリア 『マルコによる福音書』
世界売春事情
売春に対する人の反応は様々だ。ニヤニヤしだす人、眉をしかめる人、その話題に触れたくないように 無視する人・・・。しかし、一歩翻って、どうして私たちがこれほどに多様な目でこの営みを見ているのか考えてみると、私たち自身が生まれ育った環境や、受 けてきた教育、そして個人的な性格などが見えてくる。
娼婦たちの歴史は恐ろしく古い。今からはるか四千年前、娼婦は女神の象徴だった。何にも縛られることな く、すべてを受け入れ大地に恵みと多産をもたらす女。巫女たちは神と世俗を結ぶために、男たちと交わった。それは学問であり、信仰であり、治癒であった。 神話の中に生きる娼婦の原風景はとても豊かで多彩だ。
古代都市エフェソスには、今でも娼館跡があり、入り口の地面には、絵文字で「カワイイ女が待っています。 真心をこめたサービスを・・・。だからお金を持ってきてね」と書かれている。それは人々の日常の風景の中に自然に溶け込み、ずっと人間の歴史を描いてきた 女の仕事だった。現代の社会に直接かかわっている人々にとってこれは様々な二元論で語られるべきものかもしれない。けれども私たちは旅人だ。言葉にしてし まう前に、この世界最古の営みをじっと見つめてみよう。きっとそれが世界の鏡であり、自分自身の鏡であることに気づくはずだ。
ナターシャのこと
港のキオスクで湯気のあがるホットドックにかじりついていると町の至る所にある大小様々なモスクからアザーン の叫びがあがりたちまちマルマラ海の空の上に響きわる。ふと振り返ると薄暗い空に向けて数百の鳩が飛び立ってゆく。これがイスタンブールなんだ・・・ 私は手についたケチャップをなめながらそう思った。私が初めてこの地を訪れた時はたまたま五十年来という大雪に見 舞われ、町中がすっかり雪化粧していた。そのためか、夜の港に浮かび上がるイエニジャミーモスクはとても幻想的で、時間の中で止まってしまったように私の 脳裏に焼き付いている。 しかしそんなイスタンブールの空気は私たち旅行者の心に映し出される一つの幻想であって、今もって複雑な歴史の渦中にあるこの街 は人々の夥しい情感を飲み込んできたし、終わることなく今もあちこちで渦巻いている。そうしたこの街の人間的な一面は夜半過ぎに動き出す魑魅魍魎に垣間見 ることができる。とりわけ、タキシム広場からイスティラーク通りなどを中心とした歓楽街ではベリーダンス のショーやらヌードショーがあちこちの飲み屋で始まり、怪しげな賑わいを見せ始める。
イスタンブール庶民の市場「エジプシャンバザール」の入り口
かつてエジプトとの交易品がここに並んだという
トルコは15世紀半ばにこの街を陥落させて以来、アジア的な美学とイスラームの思想、そしてヨーロッパの空気 を集め、まるで文化のモザイクのような優美で華麗な文明を築いてきた。大スルタンを絶対権力者として擁する帝国は、他の帝国がそうであるように、千人近い女奴をかかえる大奥を抱えていた。この大奥が世 に言う「ハーレム」であり、独特な青タイルで装飾された室内は、こうした歴史物語と重なり、いやがおうでも我々の想像を駆り立てる。かつて「トルコ風呂」 という言葉があったが、そのイメージの原型はこのハーレムなのだ。こうした事情があってトルコといえば、風俗先進国ではないかと誤解している向きもあるよ うだが、帝国なき後の現在ではこうした優雅なハーレムはもはや現存しないし、いわゆるトルコ風呂のようなものもない。しかしこれだけ歴史と人々が交差して いる都市に女衒がない理由はないわけで、庶民のための小さな売春業は国内各所で見ることができる。イスタンブールで最大ものはガラタ塔の下の赤線地帯で、 張り巡らされたような小さな路地全体が売春のためのセクションとなっている。意外なことに、入り口には警官の詰め所がある。 ということは、これは政府公認なのであろう。酒は食らうし売春もする。ムスリムとは言っても、人間味あふれる人々。トルコ人とはそんな人たちだ。
底冷えのする曇り空の下、鼻息荒いトルコ男 たちに混じって中に入ると、 小道の両脇にはガラスケースのようなショウルーム(いわゆる飾り窓)があり、その中には怪しげなピンクのスポットに照らされた裸の女がいろんなポーズで男 たちを挑発している。道路に溢れ返っているごついトルコの中年男達は、さも神妙な顔付きで、でもほとんど 下心丸出しでこの様子に見入っている。
さて肝心の娼婦の方はというと一瞥するだけでいささか興ざめというか失望というか、そんな気分にさせられる。大半 の女は、顔は二重顎、腹は三段腹、乳房は乳牛よろしくいまにも落ちんばかりで、おおよそ風情というものがないのだ。異性の趣味は人そ れぞれとは言うが、いくらなんでもあれではトルコ人のセンスが疑われても仕方がない。客引きの力任せの強引な引き込みを 必死に振り払いながらさらに 歩を進めていると、何やら視線を感じたので目をを凝らすと、足の長いスタイル抜群の美女が一人真っ赤な下着姿で凛としてこちらをじっと見ていた。ごくまれ にこのような美女もでっぷりおばさんたちの間にまじっている にはいるのだが、中年男性たちは特にそこにだけ群がる訳でもなく、それとなく過ぎ去って行く。よく中近東やインドの人々は豊満な女性を好むというが、はた してそういうことなのだろうか。日もどっぷりと暮れ、マルマラ海から吹き上げてくる雪まじりの冷たい風に身震いしながら無言で見物しているうちにやや雰囲 気にも慣れ、冷静になって見ると、どこかこの女達がよ そよそしいのに気が付いた。どうしてか、とても冷たい目をしている。
私がトルコに二度目に訪れたときに知ったのだが、実はここの娼婦の大半は、旧ソビエト連邦(多くがロシア共和国と 言われる)から渡って来た女性たちなのである。彼女等は俗にナターシャと呼ばれ、経済的破滅状態の祖国を はなれ、船で黒海ぞいをトルコに渡り、金を稼いでいるという訳だ。ロシア寄りの黒海沿岸都市には、こうし た娼婦の出稼ぎが多く、トラブゾンに行ったときには、港に下るなだらかな坂道に厚化粧をしたロシアのおばさんたちが並んでいるを見た。海の見える坂道には オレンジ色の街灯がともり、時々寒そうに足踏みする彼女たちの姿には、不思議な哀愁が漂っていた。地元の新聞を読んでいると、このナターシャ少女とトルコ 人少年の悲恋物語りなどが載っていることもあるが、それはかなり特殊なケースで、娼婦の多くは四十才前後の女性で、当然のことながら子持ちの娼婦も相当数 いるらし い。こうしたロシア人達は集住する傾向があり、イスタンブールでもアクサライと呼ばれる地域がその代表で、注意して見れば、ロシア語の書かれたホテル等を 目にすることも出来る。恐らくこうした娼婦を組織的に売買しているブローカーがここにいるのだろう。
イスラム国トルコにとってトルコ人が同じムスリムの女性を相手に売春することは社会的、宗教的な道義に反する。しか し、娼婦が異教徒の外国人となるとこの論理も幾分弱腰になる。外国人が国内で勝手に売春行為をするならば社会の必要悪としてこれを黙認することができると いうことなのだろう。紀元後に出来た世界宗教の多くは男に都合よく出来ていると言われる。売春者と買春者とがいた場合、いつも宗教的に憎くまれる者は女 性、つまり 売春をするものたちなのだ。ロクデナシといったら、生活のために異国で身を売る寂しき中年女性ではなく、むしろ鼻の下をのばした男たちの方だと私は思うの だが・・・。(もっともそういう男たちにも私はある種の愛嬌を感じずにはいられない)
人々がもつ華やかなハーレムのイメージとは裏腹に、この街の売春の実体はとても現実的で、どこか殺風景だ。しかしこの街の歴史と通り過ぎていった旅人たち の姿はかえってこんな殺風景な庶民の営みと重なって見えてくる。エジプトから大量にもたらされる香辛料の積荷と一緒に運ばれてきた娼婦の少女がまだ木造 だったガラタ橋のたもとで淡々と客をとっていた・・・そんな日常がこの街にもあったにちがいない。
ちなみに、彼女たちにどれだけの値がつくのか気になるところだ。ユースで会った「なんでも試してみないと 気がすまな い」というカミカゼ青年の体験談によると。売春一回五千円程度、交渉次第で二千円位までは値引き可能だということだった。 わずか約十分ですべてを済ます神業で、「気がついたらすべてが終わっていた」とまるで狐にでもつままれたように話す彼の表情が忘れられない。
食って寝て女を買う。混沌のチャイナタウン
![]()
世界的に有名なヒッピーの溜まり場。カオサンロード
バンコクにいる貧乏旅行者はたいてい一泊80バーツ(320円)程度の安宿を常宿としている。市中心にはこ うした安宿が集中する地域が何箇所かあり、その最大のものはカオサンロード周辺のゲストハウス街で、もう一方の対極をなすのが泣く子も黙るチャイナタウン の旅社街である。この両地域は実に対称的で、カオサンの方は欧米人も多く、健康的なヒッピー街といった感じであるのに対して、チャイナタウンの方は薄汚 く、小さな路地が絡まりあうようにめぐらされたお世辞にも住み心地が良いとは言えないような所だ。という訳で私は大抵はカオサンのゲストハウスに住み着い てしまうのであるが、しかし、奇妙なことに、若い日本人の特に男性諸君は好んでこの汚い中華街に住む傾向があり、欧米から来たヒッピー達は皆口を揃えて 「なんであんな汚ねーところに?」と首をかしげる。しかし実はこれが結構魅力的なのだ。何故か・・・。要するに人間の欲望がいっぺんに満たされてしまうの である。安い宿、中華街独特の旨くて安い屋台料理、ひしめくように並ぶ雑貨屋、ありとあらゆる麻薬商の類い、そして、世界にも例を見ないほどチープな売春 宿。これらすべてが徒歩五分圏内に入っていて、お手軽に生活出来るという訳である。こんな具合だから、住み着いてしまった日本人も多く、暑い夕暮れ時四十 過ぎの日本人おっさんが半ズボンと黒ずんだティーシャツ姿で屋台の椅子に座り込み、ビールをかかえて草を吸っているなんて光景をよく目にする。夜半過ぎに は、どこからともなくケバい女が旅社周辺をうろうろし出し、目が会うと片言の英語や時には日本語で話しかけてくるがここの連中は大抵ビルマ山岳地方から来 たごつい顔立ちの娼婦で、日本人が暗い夜道に化かされて買って、後で後悔したなんて話しは良く聞く。さらにこうした女が初めっから宿についている場合も多 くR旅社などはその代表格で、夜中に娼婦たちがドアをひっきりなしにノックするのでとても眠れたものではない。
ところで、もう一つ忘れてならないのが冷気茶室と呼ばれるものであるが、このシステムを一言で説明するのは大変に 難しい。安食堂兼、雀荘兼、コミュニティーサロン兼、売春宿といったところだろうか。とにかく汚い路地裏の中でも一層汚くボロボロのビルの二階にあること が多い。中に入ると暑いバンコクにあっては大変有り難い冷房がかかっていて、中国人の翁がソファーでだらしなく横になっている。奥の部屋に入るとやはりじ いさん達が麻雀に夢中になっていたり、鍋を囲んで談笑したりしている。さらに奥には中国の寝台車のコンパートメントよろしく仕切られた個室があって、気が 向いたら、そこで売春行為に及ぶという訳だ。女は概して十代半ばの若い子が多く、話しをすると実に屈託ない。まるで「飴を買ってくれ」とおねだりをしてい るように「私を買ってくれ」とくるから奇妙な感じだ。別に女を買わなくてもビールでも飲みながら涼んで帰れば文句も言われない。中国人華僑独特の価値観と 生活観がこれまた中国人独特のごちゃまぜ状態になっている奇妙な空間がこの茶室なのだ。
しかし悪質な茶室の中にはラオス、ミャンマーから誘拐してきた十三、四の少女をほぼ監禁状態にして売春させている ケースもあり、最悪のケースでは、少女達をシンナー中毒にしてからろくに食事も与えず、ただ同然で働かせているものもある。こうした事実を知った国際世論 が1990年代にタイ政府に圧力をかけるようになり、とうとうタイ警察当局が茶室の一斉摘発に乗り出した。その結果現在では地下にもぐったニ、三件をのぞ いて、この歴史の長い売春文化はほぼ壊滅した。ただ、チャイナタウンからは茶室という名前の少女売春はほぼなくなったものの、現実には、それとほとんど似 たような店がタイ全土に存在している。要は名前をマッサージ店とか、カラオケバーとかに変えて同様の商売をしているというわけだ。結局のところ伝統や社会 に根ざした習慣はそう簡単になくなるものではないし、ましてや売春といういわば人間の欲望の原点のような商売が道義や論理云々で消えてなくなると考えるほ うが愚かなことなのだろう。次回は売春が歴史的に社会に根ざしている理由のいくつかを紹介するつもりだ。
ある夏私はラオスの首都ビエンチャンから船でタイのノーンカイという国境の街に渡ったことがある。ビエンチャンは 徹底的に何もない所で娯楽施設といえば街にただ一件のビリヤード場くらいで彼の地滞在中は日々無聊を囲っていた。そんな訳でタイに上陸するなり、見るもの 聞くものすべてが新鮮に感じられ、ふらふらとつい遅くまで遊びまわってしまった。さて、夜もだいぶ更けてきたので宿に帰ろうと暗い夜道をとぼとぼとと歩い ていると、道ぞいにうすらさびれた一件のマッサージ屋を発見した。タイでマッサージと言えば売春風呂のことを指すこともあるが勿論伝統的なタイマッサージ をす る店もある。ここのはいわゆるトラディッショナルな店で、私は旅の疲れを取ろうと入ってみることにした。まずは女の子の指名をする。私は無理を言って受付 に座っていた少しきつい顔の小柄な女の子にしてもらったのである。こうして薄暗い怪しげな部屋に連れて行かれあのアクロバットのようなタイマッサージが始 まったのであるが、今一つうまくない。その内彼女は身振りで「つかれちゃった」と言う。そして驚いたことに私の横に寝転がりすやすやと寝息をたて始めたの である。それだけならまあご愛嬌というものだが、その内彼女は私に抱き着き、溜め息などを吹き掛けはじめた。要するに私はナンパされた訳で、 その後「ディスコに連れていってくれ」とか、「カラオケに行こう」とか盛んにせがまれた。それとなく相手をしていると、今度は自分の下着を取り、とうとう 私の手を取ってシャツの袂から自分の胸に手繰り寄せてしまった。タイにいるとこういう抜き差しならない状況に追い込まれることがしばしばで男性諸君は余程 警戒していないと、あっというまに連中のペースに乗っけられる。マッサージだけでなく、美容院、パブ、カラオケ、さらに、デパートの売り子などにナンパさ れることもある。無論これは私が容姿端麗であるということではなく、単に金持ち外国人であるという理由からで、こんな具合に、普通の女の子がいとも簡単に 売春してしまうのがこの国の奇妙な所でもある。勿論プロフェッショナルな娼館は前回触れた茶室や置き屋、マッサージパーラーなど多彩にあるが、こうしたプ ロの娼婦たちも二日前には普通の店員だったり或いは二日後には普通の美容師になっていたりするので、かえって娼婦という商売集団を特定するのは難しい。小 学生の女の子の半数が「売春してもいい」と答えるこの国と売春との緊密な関係を垣間見る思いがする。
娼婦と美容師と華僑と
バンコクの美容師たち。別に彼女たちは娼婦ではないと思うけどね・・・。
ところでバンコクにはアジア最大の歓楽街とうたわれるパッポン通りがあり、一年中常夏の色気を醸し出してい るのだが、このパッポンという名前、実は中国人華僑パッポン氏(ウドン パッポンパニッチ)に由来する。ベトナム戦争の最中タイは米軍の駐留地となり大量の兵士が流れ込んだ。そこに パッポンは目をつけ自分の所有地を巨大な風俗街にしてしまったのである。これがその後タイが売春先進国との汚名を着せられる原因ともなっていると言われる のだがしかし、タイと売春の関係はもっと奥が深い。どんな小さな地方部落に行っても必ず一件は置き屋があると言われているこの国で組織的にこの商売をして いる者の多くは華僑だ。置き屋には雛段があり、女の子には値段がつけられている。我々の感覚からすれば、値段は娼婦の美しさと比例すると考えそうなものだ が、ここでは 違う。つまり、処女が一番高く、一回、二回と商売を重ねるに従って値段はどんどん下がる。従って、店一番の美女が最も安かったりすることさえあるのだ。こ れ は「処女と交わると若返る」、「何事も新しいほどいい」という華僑独特の価値観を反映している。
よく、タイ政府が売春を根絶しようとしても絶対にうまくいかないと言われる。
こうした娼館の経営者はパッポンのような華僑資産家や、土地の名士 だったりして、こうした実力者がノーと言えば例え 警察であろうと、場合によっては首相であろうと文句は言えなくなるというのだ。(ただし現職のタクシン首相は、タイでは珍しく賄賂のきかない政治家として 有名)
戦争の恩恵で東南アジア最大の経済大国となったタイであるがその本質は合理的なシステムに裏打ちされた西洋的な社会というよりも、昔からの因習や人間関係 に根ざした独特な社会形態にある。それはタイ人たちが培ってきた文化そのものであって、決して彼らの汚点にはなっていない。しかし、いずれにしてもあの巨 大な高層ビルの背後にはイサーンや周辺諸国から来て、二百円そこそこで体を売る少女たちの影が見え隠れしているのである。
今回はインド、ネパール。ヒンドゥー教を国教としている国である。町の至る所に見られるリンガーや、どぎつい古代遺跡の 彫刻をよそに、ことのほか性的に厳しいのがこの二国の特徴だ。ネパールの高原地帯ポカラの居酒屋にいた青年は、自宅のすぐ近くに心を寄せる女の子がいる が、話すことさえ許されないとぐちをこぼしていたし、インドデリーで買った新聞は、不特定多数の異性交渉を持つ女子大生の話題をさも世も末だといった調子 で報道していた。しかし、そこは大インドの奥の深さというか、単なる人口の多さというか、どうやらちゃんと売春業はあるらしいのだ。ネパールで聞いた話し だと、カトマンドゥ周辺には少ないながらも馬屋のような置き屋が何件かあり、薄いベットで少女とジキジキできるという。(ジキジキとは東は東南アジアから 西は中近東まで通じる性交を指す国際共通俗語である)少女はどう見ても十三くらいの子供だが、ホルモン剤を打っているらしく、胸だけはやたらとでかいとい うのが体験者の証言だ。ネパールは国の大部分が山岳地帯で天然資源も乏しく農業でさえままならない、ましてや、工業など望むべくもなく、必然的に世界最貧 国の名に甘んじてしまっている。こんな状況だから、少女売春があったとしても無理からぬことだ。しかしこれがインドとなるとさらに複雑だ。なにしろあの カースト制という古代習慣がいまだに残っている国である。やっぱりと言うか、案の定と言うか、売春カーストというのが存在するのだ。ブッダガヤ近辺や、デ リー近郊の町バタープルにそれ専用の村があり、女は初潮を迎えたときから売春以外の生業を許されないという。私はその村に実際行った訳ではない。しかしデ リーのスラムを歩いた時、実際カーストを名乗る娼館おぼしきあばら屋を何件か目にしたし、地元のインド人によれば、娼婦の値段は2ルピー(10円程度)と の話しも聞いたことがある。多分あのインドのことだから、組織的なカーストが十億の民の最下層で日夜体を売ってささやかな生計を立てているにちがいない。 さらに歴史が極端に古いインドやメソポタミア、さらにギリシアなどの国々では娼婦の意味合いが我々のものそれとは大きく異なっている場合がある。
インド中近東のカルマ
冒頭で述べたバビロンのイシュタルやギリシア神話のサロメなども娼婦だ が、彼女たちは卑しい身分の者ではなく、神に仕える神聖な女とされてきた。インドには現代でも、寺院娼婦(写真左は古代の寺院娼婦像。イン ドではデヴァダシと呼ばれている。)というのが残っていて、彼女たちは金銭のためではなく、一種の神事として僧 侶や信者に体をささげることを仕事にしている。インドにはこんな古代習慣が今も生き残っているのだ。イン ドとは実に驚異的な国だと改めて思う。(注。公式にはこの1930年代に廃止され現存していないことになっているが、実際はまだ残っているとのことだ)
ところで目を転じて同じインド文化圏でもバングラデッシュやパキスタンになると話しはだいぶ違う。やはりムスリムの 国だけあって相当に厳しい。男女は結婚するまで異性と口もきけない上に、その結婚相手でさえ、中央の結婚センターが決定するのだ。従って、結婚式が終わる まで相手の顔も見ることができないというとてつもなくキビシイ状況にある。私がパキスタンのアボッターバードで知り合った青年はこんな事情を嘆き、何とし てでも自由な日本人と結婚したいと力説していたが、その後どうなったか、連絡がない。(まあだめだったんでしょう)こんな事情があり、組織売春はなかなか 表には出てこない。しかし、やはり売春は存在する。むしろ社会規範が厳しいだけにこれらの国では売春は盛んなくらいだ。特にバングラディシュは少女売春が 多く、市内の公園などでフリー売春が頻繁に行われている。
ところで、同じイスラム原理主義を採る隣国イランではいまだに古式にのっとった結婚の儀がとりおこなわれる。私は イスタンブールで会ったイラン人医師からその細部にわたる説明を受けたが大方忘れてしまった。そのくらい複雑で七面倒くさい結婚式なのだが、唯一印象に 残ったのが、最後の儀式である。盛大な宴会の後新郎と新婦は予め決められた寝室に入る。その間も親族友人一同外で談笑しているのだが、しばらくすると新郎 が再び皆の前に姿を現す。そして、新婦が処女であったことの証しとして、手にした敷布を広げて見せるというのだ。首都テヘランではさすがにこの手の儀式は 行われていないが、地方に行くとまだしっかりとこの伝統を守っているものも多い。そしてもしも新婦が処女でなければ新郎の親族はその女を撲殺しても良いと の社会規範があり、実際に毎年何人かの女が殺されているらしく、こうした事件を扱った記事がテヘランの新聞にも載ることがあるとのことだ。さらに面白いこ とに、こうした事情から婚前交渉をしてしまった女は撲殺されるのを恐れ、陸路トルコに渡り、本国では禁止されている処女の再生手術を受けるという。なんと も血なまぐさい話しだ。
フランクフルトの長い夜
ヨーロッパで「聖地」と呼ばれる街が二つある。1つはご存知アムステルダムで、飾り窓や、ドラッグの合法化などはあ まりにも有名だ。しかし、この手の話をする時に外してはならないのがもう一方の聖地、フランクフルトなのだ。アムスのダークなイメージのせいでいささかそ の印象は薄いが、ドイツ自体の売春の歴史は長く、しかも合法とあって、非常にシステマティックにしかもスマートな形態でどんな都市にも大抵は娼館は存在す る。フランクフルトのエルベ通りは駅前から歩いてすぐの交通至便な場所にあるが、夜になると、通りの両側にあるアパートのような建物の窓にはピンクなどの 色つきの電灯がすべての階に灯り、かなり怪しげな雰囲気となる。これらの建物がいわゆるエロスセンターと呼ばれるもので、要するに娼館なのだ。これはあま り世界にも例がないユニークなシステムによって運営されている。ドイツの法律によれば、売春は合法だが、売春を斡旋したり、組織的に売春することは禁じら れている。したがって、いわゆるタイの華僑のように、娼婦を雇って働かせるという形態はとれない。つまり合法的な売春はあくまでも娼婦と買い手の二者のみ の契約によるものに限られる。さてこの辺の事情がエロスセンターではどうなっているかというと、まず、「娼館のオーナー」は存在しない。いるのは「アパー トの経営者」のみである。センターの内部には六畳程度の狭いワンルームが、上階からびっしりあり、その小部屋にそれぞれ娼婦が入っているのだ。アパートの 経営者は売春業を営んでいるのではなくあくまでも不動産業、つまり娼婦に部屋を時間貸しするだけなのである。そしてそれぞれの娼婦は借りた部屋を自分でキ レイに装飾したり、香水で香りつけをしたりして、部屋で客を待つという仕組みになっている。こうすることによってともすればギャングやマフィアが介在し、 ダークな方に流れがちな売春を非常に安全でスマートなものにすることができるのである。このあたりはさすがドイツという感じだ。さて、このようにして営ま れる夜の商売だが、このセンターにいる娼婦がまた面白い。黒人、アジア人、白人、アラブ人、などなど、人種もさまざまだが、こうした人種をきれいに分類す るように、センターの上階から、黒人、アジア人、白人などの階に分かれている。なぜか大抵は最上階には黒人がいて、最下階にはドイツ人など白人が入ってい る。そして彼女たちは、思い思いに装飾した部屋の中や、入り口に立って客引きをする。下着姿の者、裸の者、水着姿の者などが、これまたさまざまなポーズで 客を誘惑するのである。男たちは、赤やピンクのランプで薄暗く照らされた廊下を歩きながら、それぞれの部屋を覗きながら自分の好みの娼婦を探し、値段の交 渉をして交渉が成立すれば、扉をしめて売春行為に及ぶ。一件のセンターには多いときで200人近く娼婦がいるそうなので、迷路のような内部をぐるぐる回っ て全部見て回ろうと思ったら結構な運動になる。
フランクフルトのエロスセンター。ユースのすぐ近くにあった・・・。
このエロスセンターはシステム自体が非常に面白いのだが、同時にここを訪れる客層も面白い。普通のドイツ人、 出稼ぎ労働者のトルコ人、ふらっと寄ってみたという感じの旅行者、杖をついたよぼよぼの老人まで真剣に女を吟味しているのだ。またどこかの大学の教授では ないかという感じの紳士も平然とやってきて、アジアの女の子の部屋に消えていったりする。この国では恐らく売春自体がある程度日常の風景の中に溶け込んで しまっているのだろう。入り口では屈強なセキュリティーがいつも監視していて、麻薬中毒者、マフィアなどはつぐにつまみ出すし、廊下にも監視カメラがつい ていて、個々の部屋にも娼婦が緊急の時にセキュリティーを呼べるようにベルがついているとのことだ。したがって、売春につきまとう、リスキーなイメージも まったくない。まったく完全なビジネスとして、売春は淡々と営まれている。もしかしたら売春の未来形がこれなのかもしれない。やはりドイツという国はこっ ちの方面でも先進国なのだろう。
さて、ドイツの売春を語る上でもう1つ忘れてはならないものがある。それはサウナクラブ通称FKKと呼ばれるもの で、これまた売春未来形と呼ぶにふさわしいものだが、また同時に人類の売春史における伝統的な一面もあわせもっている。ハーレムといえばなんとなくその雰 囲気が伝わるかもしれない。ここにもやはり売春の経営者はいない。経営者はあくまでもサウナの経営者である。客はまず銭湯のように入り口で入浴料を払う。 そうするとロッカーのキーを渡され、そこで脱衣。奥にはサウナ、ジャグジー、シャワーなどがあり、ここでリラックスすることができる。しかし、当然のこと ながら、ここに来る人々の目的は大抵はサウナではない。で、どうするかというと、違うフロアなどにあるバーに行く。そこには裸の娼婦がたくさんいて、酒な ど飲んでいると、横に座ってきて、色目を使いながら体をなすりつけてきたりするわけだ。そして気が合って、一戦交えるかというこになったら、フロントで、 デポジットを払い個室のかぎをもらい、そこで特別マッサージをうけるという仕組みになっている。バーフロアでは男たちも腰巻だけの姿でフラフラ。リクライ ニングチェアで横になっている男の両脇から裸の女性がすりよって、体をさすっている様子は、映画などに出てくる宮廷ハーレムそのものだ。人種も多様で、南 米系、ドイツ人、黒人、アジア人と、一通りそろっている。ここまでくるとあまりにも映画ライクで、なんだか笑ってしまうというかんじだが、やはりここにも 危険とか、不潔というイメージは一切なく、どことなく知的な雰囲気すらかもし出している。娼婦たちにも悲壮感は感じられない。すべてがビジネスなのだ。
ある朝、早くに目がさめたので、まだ早朝のエルベ通りがどんな様子なのか見に行ってみた。明け方になると夜のあの怪 しさははがされるように静かになる。ほとんど人も通っていない通りに、乾いた秋の風が吹いている。エロスセンターの入り口から仕事を終えたばかりという感 じの女が出てきた。すっかり化粧を落とし、普段着姿でタバコをふかしながら駅の方に歩いている。時々、真っ青な気持ちのいい朝の空を眺めては、ため息をつ いているように見えた。
仕事を終えた彼女は、少し疲れたようだった
無表情だが、いい顔をしていた。
香港の新しい風
「これから」中国になる街、香港が実際に中国に返還されてから早くも数年が経った。資本主義経済の権化のような都市が一日にして共産主義国に吸収されると いうのだから、誰しもがその後の香港の姿を無責任に予想したり、悲観したり、挙句の果ては国外逃亡する者までいた。このあたりの事情は赤線関係も同様で、 こと色事には寛容なイギリス植民地、香港の赤線事情は確実に衰退するだろうという観測が流れていた。
香港の夜。世界で一番にぎやかな街だ
白族や、納西族の居住地として知られている雲南省の麗江で知り合った某東大の男は、「香港97」といういわゆ る「裏本」をザックの底に大量にしのばせて香港からやってきていた。夜、ドミトリーで白酒を傾けながらご開帳ということになったのだが、いわゆる香港くさ い化粧のりの女の無修正エロ本で、特に面白いとも思わなかったが、その東大生いわく、「これを上海に持っていって売るんです」とのたまう。
そういえば中国の色事情は当局の取り締まりもあって相当に厳しい。時々街中でビニールにうやうやしく包まれたエロ本 とおぼしきものを見ることもあるが、表紙の扇情的な写真に思わず買って中身を開くと、激しい「漢字」の嵐に、その辺の期待はあえなく裏切られる。まぁ、漢 字を読んでいると、結構内容的には過激なもののようだが、やはり人間願わくば言葉よりもビジュアルである。一度、なんとしてもヌード物を探そうということ になって、やっと見つけた一冊が「美と自然」というタイトルの粗末な写真集。どうも中身は日本のグラビア雑誌からの違法コピーがほとんどらしく、某東大生 によると、モデルたちは有名なAV女優とのことだ。日本で話題になった宮沢Rのヌード写真集もちゃっかり露店にあったりしたが、もちろんこれも粗悪な完全 海賊。こういった本は出版しているのはほとんど「なんたら美術出版」とか「芸術なんたら書籍」などというハードな名前の会社である。つまり、一応はAV女 優であろうと、海外のエロ本からの抜粋であろうと、彼らの表向きの主張は「これは美術です」ということらしい。中国政府が唯一認める裸媒体は「アート」だ けだ。そういえば「美と自然」というタイトル…・。
こんな状況なので、「上海で売る」というのは、香港の無修正の本場もんは、中国本土のブラックでは法外に高く売れる だろうという予測に基づく戦略らしい。さすが東大生、頭はダテについてはいない。
さて前置きが長くなったが、こんな中国に吸収される香港である。当然そのあたりのメディアはかなり規制されるのでは ないかとの予想から生まれたのがシリーズ「香港97」だった。つまり、「返還されたら、もう見れないよ」という購買層の微妙な心理をたくみに利用した商売 なのだ。これとほぼ同じ論理で、香港の売春は壊滅するだろうとうわさがあった。返還直前には、閉店前バーゲンのように、大量の外国人が香港に売春目的で 打って出たという噂もあった。
しかし、実際、返還は意外なほど現実的でクールなものだった。中国政府は文化大革命から多少は物を学んだのかもしれ ない。ほとんどが現状維持(宗教にはキビシイらしいね)。一国二制度。かくして「香港97」も置き屋も放置される次第となった。返還後に、露店にならぶ 「香港97」を見ると、なんだか地方都市にある古い「オロナミンC」の看板を見るようで、なかなか感慨深いものがある。
ところで肝心の置き屋だが、これがいつから存在したのかは裏がとれてないので、判明したら紹介するとして、しかし、 どうせ数千年の歴史を誇る中華文明の、しかも東南アジアとの接点とあっては、相当古くからこの商売が存在したと推察される。どう見ても、これは庶民の生活 にかなり溶け込んだもののような気がするのだ。 まず第一に、置き屋がある場所だが、香港の旺角から、上海街にかけての商店街、路地などにやたらメッタラ見つかる。その特徴的なポイントは、意味不明なネ オンである。緑と赤の縞でできた大小さまざまなネオン矢印が、商店街の軒下などにくっついている。で、これは何かと、目で追うと、その先には必ず二階に上 がる雑居ビルの階段があって、入り口には特に何も書いてない。これが置き屋となっていることが多い。旺角と言えば、クーロン島サイドでも有数の繁華街で、 様様な飲食店、夜店、屋台、雑貨店などが所狭しと並んだにぎやかなところだ。つまり別に歓楽街という訳でもないし、当然のことながら普通のOLや、学生、 おじいちゃんなどもわんさといる。そんな所に置き屋が平然とあるわけだ。
ネオンの先にある世界。
この置き屋の形態は「呼び出し型」で、例の階段を上がっていくと、ママサンがいて、個室に通される。そしてマ マサンに好みのタイプを伝えて個室で十分くらい待っているとどこからともなく女の子がやってきて、場合によっては二、三人の中から選べるらしい。そして三 千円から五千円くらいの値段で、三十分から一時間程度の特別マッサージが楽しめるという仕組みになっている。
ある筋の情報によると、このあたりの置き屋はほとんどがマフィアの傘下に入っていて、警察当局とマフィアの間の取引 もあるという。そして娼婦として働いている女性の多くは大陸からの出稼ぎ娘で、貧しい農村からやってきているケースがほとんどと言われている。また深川か らの出稼ぎ、ごくまれに香港チャイニーズもいるとのことである。
なんらかの裏組織が介在し、娼婦の調達がかなり組織的に行われているのは確実だ。第一、農村の少女は簡単には香港は おろか、深川にすら入れない。ここの娼婦はほとんどの場合自らの自由意思で売春を行っているのではない。かつてシルクロードの寒村で、「出稼ぎバス」を目 にしたことがある。きっと彼女たちにも故郷があり、騙されたり、親に言われて、古いぼろバスに揺られてはるか香港まで来たのであろう。爆竹と鳥料理で祝っ た田舎の正月。尻あきズボンで鼻をたらしながらどろどろで過ごした幼少期。旅人の勝手な思い入にすぎないのかもしれないが、こんな情景が思い浮かぶ。旺角の屋台で串揚げを買い食いしながら夜市をひやかしていた時、一人の少女がネオンの下の階段を上っていっ た。うす汚れたティーシャツにジーパン姿。不釣合いな赤い靴。
背中でゆれる束ねた黒い髪が少し寂しげに見えた
スワイパー村
プノンペンの雨季は何もかもがずぶぬれになる。決まって夕方五時前後になると、水分をいっぱいに吸った真っ黒 な雲がどこからともなく沸いてきて、力いっぱいに雨を落としてゆく。市場で大声をはりあげていたおばさんたち、リキシャのおじさんも、野良犬もそして地雷 で足を失った物乞いでさえも、この時ばかりは、何かをやりすごすように、静かにじっとものかげで空から降りしきる雨をみつめている。
プノンペンは不思議なところだ。1970年代にクメールルージュが毛沢東のような農民革命を始め、国土は荒廃した。 知識人は捕らえられ、拷問の末に虐殺された。都市の一般市民も強制的に農業労働に従事させられ、その多くが過労で死ぬか、拷問や虐殺によって命を落として いる。だから、1979年にベトナム軍がこの町を開放したときには、まるでゴーストタウンになっていた。現在市内にいる人々はほぼ全員が1979年以降に この町にやってきた人たちで、それ以前のプノンペン市民とは何もつながりがない。だから、建物や歴史遺産は昔のままでも、人間が完全に断絶しているのだ。
私が始めてこの町を訪れたのは、1994年のことだった。国連UNTACが去った直後で、夜間外出禁止令が敷かれて いたし、ポルポト派が残した銃器が市内にあふれ、夜中に部屋で酒でも飲んでいると、どこからともなく銃声が響いてくるというありさまだった。この街には ルールはなかった。あるとすればそれは金だった。一ドルも出せは市場で缶一杯にマリファナが買える。100ドルで殺人が依頼できると言われていた。多分本 当だろう。世界中の汚れた金がここでロンダリングされているというのも恐らく真実だろう。それでも人々は普通に生活している。
プノンペン空港の花壇に腰掛けていた空港職員が、放心したようにガタガタの滑走路を見て「僕たちの国はこれからの国 なんだ」と無気力につぶやいた光景は私の目の中に焼きついている。みんなこれから何をしたらいいのかわからずにただ放心しているような町だった。ただこの 町が不思議なのは、それが決して悲壮感などというものではないということだ。ポチポチと始まった観光地のみやげ屋の子供たちや街角の商店の人々が見せる ちょっとした笑顔は、まるで熱帯の強い光の中に溶けてしまうようにたおやかで澄んでいた。過剰ではないが負のエネルギーも帯びていない。何かアジアの本質 を見る思いがした。
プノンペンは現在世界的に見てもまれなくらいな売春地帯になっている。それは国連のUNTACの置き土産という言葉 が如実に示しているが、ベトナム戦争時のバンコクのように外国人のためにできた売春町が町のいたるところにある。一つはあまりにも有名な70stで、これ は市内北部の未舗装道路の2km程度が完全に売春目的の町になっていて、今では、買春目的ではなくても観光客が一目見に来るくらいに有名になっている。乾 季はものすごい埃で視界がさえぎられ、雨季になると道路がドロドロになって、バイタクで走るのも難儀なくらいに、ひどい場所だが、その道の両側はびっしり と非常に粗末なバラックが転々とはるかかなたまで続いている。何もない入り口のところには、化粧をした女たちがイスに座ってぼんやりと道筋を眺めていて、 時折やってくる男を見つけては近寄って、腕をひっぱって、自分のところにひきこもうとする。娼婦の大半はまだ年のいかない少女たちだ。化粧の仕方もしらな いのか、口紅が唇からはみだして、口避け女のようになっているが、気が着いていないのか、そんなことに頓着しないのか、それでもよって来て客の気をひこう としている。また中には明らかに病気を患っている子もいる。顔全体に発疹があったり、不気味なやせ方をしている少女が悲しそうな目で化粧だらけの顔をこち らにさしむける光景は、さすがに心が痛む。言うまでもなくここの売春街ではエイズが蔓延していて、WHOの調査では彼女たちの80パーセントがエイズにか かっているという。つまり、あの少女たちの命は長くてあと10年程度ということになる。
プノンペン市内にはまだこうした花町がいくつかあるが、実はこの他にも郊外にも何箇所か町がまるごと売春町になって いるような場所がある。その一つが日本のニュース報道などで脚光をあびたスワイパー村だ。この町がなぜそれほど脚光を浴びるかというと、その理由は、そこ で働いている娼婦が全員ベトナム人であるということと、彼女たちの年齢が極端に低いということにある。ベトナム人は、形質的な特徴が中国人に近い。つま り、東南アジアの人にしては肌が白く顔立ちも南中国の人のようにくせのないすっきりした顔をしている。しかもその年齢が低いとあれば色白少女趣味の中国人 や日本人が放っておくはずがない。ここを訪れる者の多くが日本人、中国人、ドイツ人、アメリカ人など外国人であり、やはり70stのようにここも外国人の ための町になっている。しかし、ここの娼婦には8-15才といった子供が多く含まれていて、これが日本でスキャンダルになったという訳だ。しかし、こうし た少女売春は何もプノンペンに限ったことではなく、隣国タイやミャンマー、バングラディシュなどでも多いと聞く。組織的な少女売春の歴史は恐らく中国始皇 帝以前にまで遡ると思われる。中国では処女と交わることが不老長寿に繋がるという迷信があり、これを東南アジア諸国に移民してきた中国人華僑が広めたので あろう。バンコクにかつてあった冷気茶室などはそのいい例だ。また古代バビロニアや現代のインドにも聖娼というのがあるので、長い人間の歴史の中ではそれ ほど稀有なことではない。しかし、理性の時代と言われる現代社会の中で、これほど平然と少女売春が営まれているケースも珍しく、それがニュースではセン セーショナルに語られた。ただ、この報道は私には少し無責任に感じられた。視聴者がとびつくようなショッキングな話題を無責任にばらまくゴシップ報道かあ るいは、買春者個人を糾弾する魔女狩り にしか見えなかった。数年前にエイズに罹りあと数年しか生きることができない娼婦が公の場で演説をしたことがある。「私たちの生きる手段を奪わないで欲し い。この国 ではたくさんの人がこの仕事で生きています。」事情をよく知るいくつかの民間支援団体はさすがに安易 に騒ぎ立てるようなことはしなかった。彼らはもっと現実的に娼婦たちの健康管理や避妊具の配布、また極端に年齢の低い子供たちの保護などの活動をしてい る。それだけに日本の報道のお定まりな二元論が幾分現実離れして見えた。 売春をとりまく事情は社会そのものが変わらない限り決して変化しない。そのことは人間の長い歴史が教えてくれている。
プノンペンの日本人宿に行くと、大抵この手の事情通がいて、夜に酒でも飲みながら親しくなると、非常に現実的に 淡々とこの筋の話を教えてくれる。まさに事務的な「情報」の伝達という感じだ。私は翌日、この情報を元に親しくなったバイタクの青年にこの村に連れて行っ てくれるかと聞いてみた。彼の反応は「買うのかい? あそこはベトナム人ばっかりでよくないぜ、夜遊びなら俺がもっといいとこ連れて行ってやるよ」と言う。彼はクメール人。つまり純粋にカンボジアの人だ。複 雑な歴史がベトナム人に対する差別意識を生み出しているのがよくわかる。「いや、見に行くのが目的だから、とりあえず連れて行ってくれよ。」というと「そ ういうのはああいうところでは一番嫌われるんだ」とニヤニヤしながらもバイクの後座を指さして、「乗りな」というジェスチャー。こうしてバイクにゆられる こと30分。村の入り口に着く。入り口には日本語を含めた世界各国語で「コンドームを使いましょう」と書いてある巨大な看板があるが、それも今やもうさび 付いていて、所々文字がかけている。ベトナム人に対する差別のせいか村の中は閉鎖的な雰囲気で、幅の狭い道の両側に粗末なバラック建ての小屋がごちゃご ちゃと立ち並んでいて、これがすべて置屋になっている。やはりここでも道の両側には少女たちがずらっと立ち並び、こちらをジロジロと見ている。バイクを降 りて、一人でてくてく歩いているとどこからか歓声が聞こえてきて、いきなり五人くらいの少女に囲まれ、一斉に私を置屋の中に引き込もうとする。彼女たちは まるで鬼ごっこをしているような無邪気な表情だった。私の持っていたイメージはのっけから一転した。なんとかこれをやりすごし、粗末な軽食屋に腰を落ち着 けサンドウィッチを注文した。そこは外国人だらけで日本人もいるが、お互いに会話はない。不思議な時間が静かに流れていた。店の前の置屋にいる娼婦たち は、みんなこちらをじっと見て、時々手招きしたりしている。まるで娼婦と客がにらみ合っているようだった。彼女たちは、恐らく十代後半から二十代前半だろ う。服装は幾分よれていたりもするが、一所懸命に「娼婦」らしい派手さを意図しているようだった。でも目つきや仕草がまだ子供なのは隠せない。しびれを切 らせたのか、そのうちの十五六歳くらいの少女が店までやってきて、私の横によりそって、しなだれかかってくる。真っ赤な口紅をぬっているけれど、その顔は まだあどけない。テーブルにあるコーラを口までもってきて「飲んで」という身振り。それが終わると、今度はサンドウィッチを口元に持ってくる。恐らくかし ずいているつもりなのだろうが、なんだかままごとにしか見えない。隣に座っていた白人がこちらを見てニヤニヤしていた。私は彼女と少し話しをしてみようと 簡単な単語を並べただけの英語で話し掛けてみた。やはり理解していないようだ。今度は向こうから話しかけてくる「ボンボングッド、ゴー」。ボンボンとは俗 語でセックスのことを言うらしい。つまり、私を買ってくれということだ。私は次々と口に運ばれるものをただそのまま飲んだり食べたりしていた。けれども彼 女の言われるままにしていたら、あっというまにコーラも食べ物もなくなっていた。「さぁ、立って」とにっこりと微笑みかけてきた。渋っていると、今度はと ても悲しそうな顔をする。そしてまるで懇願するように腕にしがみついてきた。上目遣いに一心にこちらを悲しそうにみつめる少女。この情景には覚えがあっ た。随分昔にベトナムにいったときのことだ。物乞いの少女が私のところにやってきて、本当に悲しそうな顔でこちらをみつめるのだ。そして、さすがに情をう ごかされ、幾ばくかのドン紙幣をわたすと今度は少女の表情ががらっとかわった。いたずらしている子供の顔だった。そして、その金をもってかけだすと、遠く にいた女性のところに行ってそれを渡していた。恐らく母親だろう。二人の表情や仕草はまんまとひっかかった獲物に対する優越感に見えた。なんだか可笑し かった。私はその時ベトナム人の人の心をつかむしたたかさを知った。娼婦の彼女の表情が本当の心の表れであるかどうかはわからない。けれど一心に見つめる 視線は決して単色ではない。そのうち私のところでコーラ飲みなさいと言い出すので、彼女の置屋の中に入ってみる。中には広間があり、ちょっとしたソファと テーブルがあって、ここで飲み食いができるようだ。彼女はなぜか私をおいてどこかへ消えてしまった。どうしたのかと思っていると、二階からドヤドヤとたく さんの娼婦をつれてやってきたのだ。どうも自分も含めたこの中から選びなさいということらしい。みんな十代後半といったところだろうか。ベトナムの民族衣 装、アオザイを着ている子もいた。うつむき加減にもじもじしている子、放心したように天井をみている子。こちらを軽蔑したような冷たい眼差しで見ている 子、何がおかしいのか、一人でケラケラ笑っている子・・・。私が一向に買うそぶりを見せないので、さっきの彼女が何かいいものがあるからこっちおいでとい う感じで私の腕をひっぱり出した。飾りっけのない階段を上り、二階に連れて行かれた。何もないがらんとした牢獄のような部屋が三つくらいあって、その中央 にやはり広間がある。そこに座れと言われ、言われるままに座っていると、今度は二階にいた少年が、違う少女をつれてきた。そして私の前に並ばせたのだ。
私は突然のことに呆然としてしまった。少年がつれてきた少女たちは間違いなく10才前後だ。中には5才程度ではない かと思える子もいる。少年はニコニコしながら、「どうだい、この子たちは特別だ。」というようなことを言いながら一人ずつ、「この子はどうだい」と指して いる。一人の子は明らかに泣いていた。泣きはらした目でこちらを見ている。そして、懸命に泣くのをこらえている。少年は相変らずニコニコしながら一人ずつ 「こいつはどうだい?」とこちらの顔をのぞきこむように話つづけている。一番幼い子供はどういうわけかなんだか遊んでいるみたいに無邪気にニコニコしてい た。楽しそうに見えた。彼女はときどき少年にじゃれかかるようにからみついている。少年と彼女は仲がいいのだ。それは間違いなかった。そして少年が言っ た。「この子は一番若いよ。日本人は若いのが好きだろ」
私はそのまま外に出た。なんだか妙な倦怠感に包まれていた。さっきの軽食屋に入り、ジュースを注文して、また今の置 屋に並ぶ少女たちを呆然と眺める。不思議と心が澄んでいくような気がしていた。
夕方はスコールがやってくる。それがくることはなんとなく空気が教えてくれる。道を歩いていると突然水しぶきがあ がった。あわてて近くの軒下に入っていつのまにか真っ黒になった空を眺める。これは当分続くな・・・と思っていると、隣に一人の少女がずぶぬれになって駆 け込んできた。さっき軽食屋でしなだれかかってきた子だった。しばらく置屋の入り口のところにいなかったから、多分店にいた白人に買われていたんだろう。 手には食べ物の包みらしいものがあった。休憩をもらったのかもしれない。彼女は私に気がつくと、にっこりと微笑んだ。さっきの悲しそうな顔ではなかった。 通りがかりの旅人を見るような彼女の視線に私はなんだかほっとした。私たちはいつまでも続く激しい雨の景色を軒下から覗き込むようにぼんやりと眺めてい た。
雨を映し出す彼女のみずみずしい目のかがやきは、いつまでも定まることはなかった。
これが最後だ
毎回毎回色事ばかり扱っていると私の人格が疑われそうなので、このテーマは今回で終わりたい。そこで、総決算 として、その他の地域の事情をまとめてみたい。まずはヨーロッパ。パリの娼婦なんていうのは、オペラ椿姫のビオレッタをもち出すまでもなく、この町の名物 でもある。娼婦とはいってもやはりフランス人、どことなく格式が違うといった感じだが、これがウィーンだと少々様子がちがう。この街の旧市街は中世の城壁 跡に作られた円形の周回道路によって囲まれている。この道路に面して有名なオペラ座だとか、市役所、国立劇場などの主要な建物が建っているのだが、オペラ も終り、紳士淑女が家路を急ぐ時分になると、このリンク周辺にスタンディングガールが出始める。よく見ると顔付きもファッションもまばらで、挙げ句の果て はゲイまでが立っている。さすがは民族のるつぼと言われる都市だけあって、多彩だが、最近ではユーゴ難民の子供達の売春が社会問題になってきている。彼等 はプラタ遊園地近辺の貧民街に住み、犯罪行為もするということで、当局も放っては置けないといったところなのだろう。東欧ではブルガリア、ルーマニアが面 白い。うすら寂れたバー(東欧のバーはどこもこうである。)に入ると、中年のおやじと、スラブ系の若い女がペアになっていて、おやじが客に声をかける。要 するにポン引きである。私が革命直後のブカレストの飲み屋で一杯やっていたら、案の定客引きがやってきた。ドイツ語の喋れる奴で、私が「景気はどうなんだ い」なんて調子で話しかけたら、なぜかその話に夢中になってしまい、肝心の女の子は放っておかれた。それどころか、彼は「お前に会えて嬉しい」などと言い 放ち、勢い、私の勘定も払ってしまった。ルーマニア人はやはりラテンの末裔なのである。
表向き売春を禁じている国にも大抵の場合は、この人類最古の商売は必ずと言っていいくらい存在する。しか し、中国では法的な理由や社会的理由などといった大義名分はともかく、やはりあの巨大な人民政府の圧力が故に売春自体がかなり強く取り締まられているとい うことができる。しかしそうは言っても上海の和平飯店にはとんでもないスタイル抜群のチャイナドレス高級コールガールが出没するし、雲南省の省都、昆明の 某賓館の前には厚化粧の女がうろうろし、成金万元戸がこれを買っている。事実は法律よりも奇なりといった感じだ。もっとも、これはとんでもなく危険な商売である。何しろ中国の法律によれば、売春は死罪に当る重罪という訳で、連中も命賭けなのだ。毎年のよ うに売春の一斉摘発、一斉裁判、一斉処刑の報道が日本でもされているが、それでも人民は懲りないらしい。男は性欲のために、女は金欲のために日々命をかけ ているのだ。
ところで中国シルクロードの奥地に行くとだいぶ様子が違う。そこはトルコ系ウィグル人の自治区で住んでいる人間が違 うのだ。もっとも彼等はムスリムであり、色事には厳しいはずだ。しかし、その一方で彼等は中国人でもある。無論売春は禁止だが、社会主義の理念がかえって 宗教的足かせをゆるめているといった様子なのだ。だからと言って連中が「宗教はアヘンです」てな顔をしている訳ではない。ちゃんとモスクに行って、メッカ を拝む。話しが長くなったが、要するにここにもやっぱり売春はある。しかしその客が少々変わっている。パキスタンとの国境の町カシュガルは昔ながらのオア シスであるが、冬の間はカラコルム山間は深い雪に閉ざされ、国境フンジェラーブは閉鎖されている。ところが六月頃に国境が開くと待ってましたとばかりに一 斉にパキスタン人が雪崩れ込み、カシュガルの女を買い、大麻を吸いまくるということだ。従って、ここでのパキ人の印象は非常に悪い。前回触れたがパキスタ ンでは男女関係にはたいへん厳しいため彼らにしてみれば、出稼ぎ売春に討って出るといった感じなのであろう。私がここを訪れたのは冬だったため残念ながら こうしたパキスタン人は一人も見られなかった。さて、この他にも台湾の華西街(作者注、台北市に残っていたこの売春街は1997年9月、正 式に 廃止された)、プノンペンの70通り、サイゴンのバイクガール、ヨルダ ンの客引き、などなどまだこの手の話題は尽きそうにないが、こればかりで終わっても困るので一応このテーマは今回で終りとしておこう。次回からは世界の国 境を散策してみたい
copyright 1994 sakamoto@phil.flet.keio.ac.jp